思い出
より遠くヘ!練習漬けの毎日 金子今朝秋(M39)
1年次の関東大会では、県外の高校生の強さに圧倒され、惨めな思いで帰省した。中学時代からの先輩であり手ほどきを受けていた窪田一郎先輩(M38)から「二人で全国大会を目指そう!」と誘われ、厳しい練習が始まった当時は、飯田町の陸上競技場が練習の中心であった。
9時から正午まで走・跳を中心に1日おきに学校に戻ってウェイトトレーニング、その日は13時頃までになった。午後は、和田町(現緑ヶ丘)の陸上競技場で15時から19時頃まで砲丸・円盤投げの投擲(てき)練習を行った。
体力的にはウドの大木で先輩に追いつくだけで精一杯、練習は厳しく、何回となく挫折しかけた。先輩に叱咤激励されながら夏の練習を消化していった。当時、「練習中は水は飲まない」のが常識で、練習後の水のおいしさは格別であった。汗をかいて塩分が欠乏するからといって、食塩水を初めて飲んだ時の「しょっぱさ」は今もわすれない味である。
夏休みも後半になると、トレーニング効果が表れ、日々の練習にも余裕が出てくるようになり、30mダッシュ・立三段跳び・懸垂・腹筋等々が強くなるとともに、円盤投げでも連日自己記録を更新秋の大会が楽しみになってきた。
そんな努力が実って、県体育祭で優勝(34m51)、来年への夢が膨らんできた。冬の練習はさらにエキサイトして、朝練習のハンマー投げ、昼休みには平行棒・鞍馬等を使っての上半身の強化、休み時間には廊下で空身ターン、さらに、放課後のホームグランドでのメイン練習、夕食後には自転車で脚力強化登美の坂へと一日中練習に明け暮れた。2年次のシーズンは、早々よりベスト記録の更新、惨敗した関東高校では予想を翻して優勝(45m22)、そして、全国インターハイでは、投擲3冠王を達成した室伏重信氏(後のアジアの鉄人)に次いで第2位(46m85)の成績を収めることができた。たまたま祖父の故郷の新潟であったことも何かの縁、皆様方に喜んでいただいた。
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順天堂大学卒業後、同大学の教授、陸上部監督、コーチ歴任(箱根駅伝優勝時)し退職後も後輩の指導に尽力している。 練習場所がない時代、思考錯誤しながら練習に励んだ結果、最後には新記録で優勝するまでの過程がつまびらかに描かれています。そしてインターハイでは室伏重信氏に次いで第2位の成績に輝き、有終の美を飾りさすがだと思いました。今の甲工生に読んで欲しいですね・・・。
(村上博靱)