ひたちなか市武田の湫尾(ぬまお)神社と小場江用水路                                           村上博靭
水戸藩の領内には、落差の大きな久慈川、那珂川があり、江戸の守りには最適な場所で、しかし、この二つの川の治水は水戸藩にとっての重要な課題でした。水戸家初代が家臣永田茂衛門(後の円水)、勘衛門親子に治水事業を命じました。この二人は、甲州武田家の出で治水技術に優れていたのです。常陸甲斐は深い因縁がありました。平安末期、源義家の弟、義光が長男義業を佐竹郷におき、それが後の佐竹家となりました。三男義清を武田郷(現在のひたちなか市)に土着させましたが、義清は周辺豪族との争いで上訴され、甲斐の国に流され甲斐武田家となったのです。さらに、徳川家康は、武田家の滅亡を哀れんで、五男信吉の母が武田家臣の出であることから武田信吉を名乗らせ、佐竹を秋田に移した後の常陸藩主としましたが若くして死んでしまったために、水戸家をここに置いたのです。 永田親子も、信吉の家来となって移ってきたのでしょうか。ひたちなか市武田湫尾(ぬまお)神社辺りが屋敷跡と言われています。
 
甲斐武田氏発祥の地、      
 
小場江用水路は
甲斐の武田家の出、永田親子が造った用水路で全長36km、総給水面積1100ヘクタールの用水路です。現在では常陸大宮市、常陸太田市、水戸市、那珂市、ひたちなか市等の田んぼに給水して田んぼを潤しています。
水戸家初代頼が家臣永田茂衛門(甲斐の出身)、勘衛門親子に治水事業を命じました。
写真は津田天神山地内の
小場江用水路、小生の自宅から約100m、ほぼ毎日のように眺めています。