甲州人国記  “異国に心宿しつつ” ⑳   昭和58年   最終回        令和4年3月8日     村上博靱
七十九歳になる慶大名誉教授前島信次は、『アラビアン・ナイト』(平凡社・東洋文庫)全十五
巻完訳の筆を執り続けている。英訳本や仏訳本からではなく、原典からの翻訳だ。四十一年に第一巻
を出し、いま十二巻。

「完結まであと五年はかかる。寿命との勝負です」。『千一夜物語』の名でも知られるこの庶民文学
は、九世紀にわたって完成したイスラム文化の縮図。「アラブ人は、オイルだけで付き合ってもらって
は困る、とよくいいます。ほんとの文化交流が大切な時代なんです」

アラビア学、オリエント世界研究の先駆者・前島は八代町のうまれ。父で九代目の医家。土蔵にあった『史記』
『楚辞』などの漢籍が、西域への見果てぬ夢をはぐくんだ、と回想する。大病後の句に、この秋も生きる 甲斐路の
紫玉かな 

前島と東大東洋史の同僚に、お茶の水女子大学長をした中大教授市古宙三(69)甲府市生まれ。
坂町育ちの神奈川大教授
網野善彦(55)は中世史に取り組み、国内外に、「常民文化」の変遷を探る。


青山学院長・理事長の大木金次郎(78)は、日本私大連盟会長や文部省の私大審議会会長も兼ね、私大
運営に奔走する学院のカオだ。

甲府のレンガ製造販売の家に育ち、甲府商業を出て当時の朝鮮銀行へ勤める。ソウル支店長に「もっと学問をしては」
といわれ、牧師の口ききで青山学院に入ったことが道を開く。昭和四年、学院のはからいで米国留学、新知識を身につけ
てきた。
四十八年、国連本部の総会に民間代表として出席した大木は、ロビーでの自由討議に走り回る。「その折、
国際人を育てねばと痛感した。

英語力はあるが仕事は出来ない、仕事は出来るが英語力はない、と国連本部で吹き込まれて」と、新設の
国際政治経済部に力を注ぐ。
山梨大学長が町田正治(70)、名工大学長が武藤三郎(63。共に旧日川中出身。生科学研究に新分野を
開いた大阪名誉教授
須田正巳(67)は春日居村の医家の生まれ。科学史の元大阪市大教授原光雄(73)
白州町育ちだ。
画家増田誠(62)はパリに住んで二十六年目になる。「いつでも生身の自分を出して生きていきたい。よくも悪くもね。
私の絵を育ててくれたパリには、やはり風が吹いているよ」。

谷村の生まれで、流し職人の父を早く失う。旧制都留中を出て代用教員、軍隊、北海道入植、看板業と遍歴。パリでは受賞
を重ね、日本人画家を代表する絵描きとなった。

「美術学校へ行くほど絵は下手ではなかった」。独学の絵はパリ下町の哀歌ととらえ、聖書に題材
をとり、ドン・キホーテを描く。「自分がドン・キホーテだから」。天衣無縫を気取るが、「女房に
監視されながらパリでは一日十時間は描きます。
パリの増田の友が、都留中先輩の駐仏大使内田宏(64)。旧制静岡高で首相・中曽根と同級。「富
士を眺めながらソバを食べたい」。


成田空港で苦労した元新東京国際公団総裁
今井栄文(71)も都留中同窓。俳号湖峰子。同中の大先輩桑原幹男(87)は愛知県
知事に六選され、大中京の基礎作りをした。

ピアニスト中村紘子(38)は、「聡明な女」といわれる。十五歳で毎日音楽コンクールの一位となり、ショッパン国際コンクールでも最
年少者賞を受けて国際的に活躍。エッセーをものし、夫の作家庄司薫(45)のために料理の手を惜しまない。


塩山市の生まれ。母の手で育ち、ピアノのスパルタ教育を受けた。「けれど、自分の音をつかんだと思ったのは三十過ぎてからなん
です」「芸術は、突きつめると血の問題だと思います。だから、改めて生い立ちや民族音楽を考える。


子供たちの帰宅を促す町のメロディーが外国音楽だと、血が逆流しますよ」甲州人国記はこれをもって終わります。(敬称略)資料;