2020年1月17日



2020年1月10日



2019年11月29日




2019年11月28日



2019年11月26日



19年9月24日




2019年9月11日 キタサンブラック






















主人の故郷からお土産











ドラゴンフルーツ








































2019年2月22日
 






2018年4月3日
八年前から始めた絵手紙を紹介いたしました。村上香津江

お茶でも飲んでけし

鉛使わない圧電体開発 世界初環境汚染防止の新素材 山梨大学の和田教授ら開発   平成24年3月18日

 山梨大学工学部の和田智志教授(49)らのグループは、廃棄時の土壌汚染が心配される鉛を使わない新たな「圧電体」の素材の開発に、世界で初めて成功した、と発表した。
 圧電体は、電圧をかけると伸び縮みする性質を持った物質。車の燃料をタンクから押し出す装置の動力源として使われているほか、パソコンやケイタイなど様々な電子機器に組み込まれている。環境汚染防止のため、新素材の開発が急務となっていた。                  

圧電体の性能は、「いかに少ない電圧で伸び縮みするか」「耐熱性」の2点で決まる。鉛を使った圧電体は、この2点で他の素材よりもはるかに優れており、鉛は1950年代後半頃から、圧電体材料の主流だったという。                                                    

だが、鉛は廃棄時に酸性雨などによって溶けだす心配がある。2000年頃からは、世界中の研究者が、鉛の圧電体の性能を超える代替素材の開発をめぐり、競争を繰り広げてきた。

そんな中、和田教授は、鉛の圧電体の構造を応用した新構造の圧電体を、人体への影響がないとされるバリウムを使った化合物で作ることに成功。性能は鉛を使った場合の2倍以上、製造コストは鉛と同程度だという。
和田教授は「常識を覆す、まさに異端とも言える素材」と胸を張る。 実用化されれば、環境問題への対応が最も大きなメリットとなるが、それ以外にも多くの活用法が考えられるという。

例えば車の燃料をタンクから押し出す際、高温になるエンジンの近くに圧電体を配置できるため、省スペースによる車体の小型化も期待できる。また、インクジェットプリンターでは、少ない電圧で動く省エネ型の開発にもつながる。
今回の成果は、今月19~21日に京都大で開かれる日本セラミックス協会2012年年会で発表される。  


令和4年3月17日
命の源、水の大切さを感じる環境に関する創作文で山梨県知事賞を。 八巻貴哉君(11歳)  平成24年6月

水や海などの環境に関する創作文を、全国の小中学生から募集する「ざぶん賞」。山梨県内から約300点の応募があり、最高賞の知事賞に選ばれた。

『受賞できるとは思っていなかったので、とてもうれしかった』ざぶん賞の応募は、通っている甲府・羽黒小の放課後児童クラブの課題だった。                                   
「最初はやらされている感じだった」けど、母親のめぐみさん(39)のアドバイスを受け、好きな材料をテーマに取り組んだ。創作文のタイトルは「食卓と水」。

夕食の準備を手伝いながら、レンコンハンガーグやオクラのポン酢あえ、ポテトサラダといったメニューを作る際に使う水、ごはんをまぜる前にしゃもじにつける水、なにをするにも水が必要なことに気がついた。 

. 受賞作では「水を使っていない料理はないことにびっくりした。食べることは生きていくためになくてはならないこと。命の源は水だということをあらためて知った」とつづった。                .

受賞後、水を大切に使うという意識だけでなく、自然環境を大切にしようという気持ちも強くなった。友達と遊びに行った川でごみを見つけ、みんなで拾った。

「ごみが落ちていたら気付くようになった。川が汚れると生き物が困る。水がなければ動物や植物、人は生きていけず、自然をきれいに、大事にしなければ駄目。一人一人の自覚が大切だと思う」

趣味は釣り。これまでは釣り堀や海で釣っていたが、川の環境を守ることを意識した今は、渓流釣りを体験したいという。「釣れたときの達成感が楽しい。きれいな川でヤマメやアユ、イワナを釣って、自分で調理したい」と笑顔を見せた。

なお、八巻貴哉君甲府市山宮町在住八巻弘倫さん(E33)のお孫さんです。           

 資料;山梨日日新聞


東京スカイツリー設計陣に土屋哲夫さん(勝沼町出身)再び甲州人の手で「内藤博士の意思」継承

世界一高い634メートルを目指して東京都墨田区で建設中の「東京スカイツリー」の設計に、甲州市勝沼町下岩崎出身の
土屋哲夫さん(40)が携わっている。半世紀以上にわたり国内最高で、完成当時は世界一を誇った東京タワーの設計を手掛けた南アルプス市櫛形町出身の内藤多仲に続き、“最高峰”の建築に再び甲州人がかかわっている。

新たなランドマーク建設で課題となった狭い敷地は、日本の伝統的な建築技術を応用した耐震性の強化でクリア。地面の三角形が次第に円形となる形状は先端ノウハウを生かした。「内藤多仲先生も当時、最新技術を駆使したと思う」という土屋さん。技術の粋を集めたこだわりは塔博士と同じだ。
 
建設現場の約200メートル東にある墨田区押上の京成橋は、展望スポットとして平日でも混雑。見物客が写真撮影する姿を見ながら、土屋さんは「東京タワー(333メートル)を超えてからお客さんが増えたようだ。多くの人に見られるのは、うれしい」と目を細める。
 
土屋さんは、駿台甲府高を卒業後、東京大学、同大学院に進学。東京タワーも手掛けた日建設計(本社、千代田区)に就職した。スカイツリーの設計には社員約20人が中心となってかかわり、土屋さんは建物のデザインや建物内部の仕様を手掛ける意匠設計チームのリーダーになった。
 
高さ634メートルの計画に対する最初の印象は「本当に立つのか」だった。超高層建築物は通常、底辺と高さの割合が「1対5」程度とされるが、建設予定地(約3万7千平方メートル)が細長い地形のため底辺は68メートルで、割合は「1対9」という厳しい条件だった。
 
耐震性を増すため地下約50メートルまで支えのコンクリートを埋め込んだほか、建物の中心に柱のように立つコンクリート製の構造物を、鉄骨パイプが覆う二重構造にした。中心の「心柱」と周囲の梁(はり)などで成り立つ法隆寺五重塔の工法を応用し、中心部と周囲が異なる揺れをすることで、大きな地震にも対応できるような仕組みにした。
 
デザインにも趣向を凝らした。タワーの断面は地面が「最も安定感がある」三角形で、高くなるに連れて丸みを帯び、最後は完全な円形となる。日本刀のそりなどをイメージした鉄骨パイプを組み合わせることで特殊な形状を実現。「工事をする人は大変だが、最初から造りやすい形では面白くない」とこだわりを見せる。
 
日建設計が
内藤多仲と協力して設計した東京タワーの図面も見たという。「内藤先生はわたしにとって教科書の中の人物。意識することはなかった」と振り返るが、「東京タワーもスカイツリーと同じように最新技術を駆使したと思う。その点では内藤先生と同じかもしれない」と話す。なお、高さ634mは「武蔵」と覚えやすい。 

山村宏樹投手(36)=甲斐市出身。       平成24年11月9日 

甲府工業 からドラフト1位で阪神に入団し、近鉄、楽天と3球団で18年間プレーし通算成績31勝44敗 2セーブ。
5年目で病気を理由に自由契約となった時は、甲府工業の恩師が心の支えになりました。

2001年には7勝を挙げて近鉄のリーグ優勝に貢献。山村さんは「解雇、球団消滅など、多くの経験をしてきました。 
今季はけがの影響で1軍登板がなく、「1軍のマウンドに立ちたい思いは強かったが 手首をけがして、靱帯がぼろぼろ。
もう苦しんでプレーする姿を家族に見せたくなかった」と話しました。 
山村さんは敷島中から甲府工業に進み、2年生の時にはエースで4番として甲子園出場を果たした。
1995年にドラフト1位で阪神に入団。4年目に待望の初白星を挙げた。
苦しんでいた山村さんを支えたのは、甲府工業時代の監督・原初也さんでした。
原さんは「もう一度復活させないといけない」と、山村さんに母校のグラウンドを使わせて練習させました。
原さんには引退の決意を一番先に電話で伝え「一生懸命やったから。ありがとな」と声をかけられました。
山村さんは「プロ生活は苦しかったけれど、監督さんの言葉を聞いてよかったと思えた」と語った。 
引退後の進路は未定だが「野球に関わることをしたい。育ててくれた山梨や楽天に恩返しをしたいと思っている」。

野球界発展のために、今までの経験を生かすつもりです。 資料;山梨日日新聞







2022年3月12日

サマーフルーツフェスティバル・さくらんぼの日が16日、山梨市江曽原・笛吹川フルーツ公園で開かれた。
笛吹川フルーツ公園から甲府盆地を眺める夜景は2003年に「新日本三大夜景」に選ばれている。
首都圏から夜景目当てに若者たちが増えたといい、プロポーズをするのにふさわしい「恋人の聖地」として認定されている。
ダイヤモンドをちりばめたような、きれいな夜景を見に一度訪れてみてはいかが。



回想録  2022年3月11日  村上博靱

2011年3月11日の東日本大震災は東北地方を中心に未曾有の被害、多くの尊い命と財産を失い心よりお見舞い申し上げます。
我が茨城同窓生も震災の恐怖をまのあたりに体験し、家族ともども怪我が無かったのが何よりも幸いでした。
復電直後からたくさんのメールで近況を寄せてくれましたので当時の様相を抜粋してご紹介いたします。

 
▼山梨も心配になり南アルプス市の芦安へ行く道の野牛島の叔母さんのところに電話しましたら、震度4だったとのことで、無事で一安心したところです。地震が日本列島の北半分を舞台に暴れまわっているようで不気味な気がしますが早く安定して欲しいです。
地震もそうですが、福島原発も深刻な状況で目が離せません。危機管理の重要性をつくづく感じさせられます。2日前に電気が回復し、今日はガスが復旧しました。水道はまだですのでお風呂にまだ入れません。 3/16   
田原 和雄(E34)


▼修復作業で疲れていますが家族が無事なのが何よりです。宇佐美先輩もご家族共々お元気なようでした。13日12時頃、電気が復帰しました。水道は14日4時30分現在断水中です。昨日は大島悠歩会(高齢者の外に出ようよう会)3月行事中止の連絡で電話不通などのため、お見舞いがてら車で歩きましたがスーパーの近くと常磐線陸橋周辺は交通マヒ状態で難儀しました。会員の皆さま全員のご無事を祈念致します。小山田 浩(E27)


 ▼水戸も震度6の揺れでした。今まで経験したことのない揺れが長く続き相当驚きました。机の下に逃げ込んでおりましたが幸い怪我もなく無事でした。断水・停電が続いておりましたが、昨日夕方より通電されま したのでメールが通じるようになりました。
我家の被害は屋根の瓦が落ちて、半分くらいは浮き上がっております。周囲の家を見てもかなりの確率で瓦が浮き上がって落ちていることと、大谷石の塀は殆ど倒れてしまっています。部屋の中は食器が落ちて割れたり、本箱から本が落ちたり絵の額はほとんど落ちてしまいました。
昨日と今日はこの整理と飲料水と食糧の確保などでした。復電のおかげで昨夜から暖かくして過ごせています。
齊藤 尚武(M32)
  

                                                                                    

 ▼早速のお見舞いメール有り難うございます。当方、木本兄弟お陰様で怪我もなく過ごしております。家の食器等はかなり壊れましたが、片付けも終わり物資の調達に追われています。
電気は13日夜9時30分頃通電しましたが、水道がまだで苦難しています。村上様や皆様のメールを拝見させて頂き、心強い気持ちになりました、感謝申し上げます。  3/14  
木本 土八(E39) 

 
▼一週間を過ぎ、家の中も整理されてやっと落ち着きを取り戻しています。昨日の18日頃から、スーパーやコンビニに物が入り始めました。販売量は制限がありますが、飲料水(2Lボトル2本/一人)、牛乳、卵、なども手に入るようになり、二人だけの生活には十分です。
生活用水は近所で井戸を所有する家から分けて頂いており、大事に使っております。東北の被災地のことを思えばまだまだぜいたくです。断水がまだ続いていますので、生活用水の確保が日課となっています。昨日も大きな余震があり、東海原発が心配になってきました。
石川 信(E33)

                                               

▼お見舞い有難う御座います。家内共々無事です。それにしても凄かったですね、こんなの生まれて初めてです。被災したところは気長に片付けたいと思います。 
河西 徹(E30)

                                     
▼今朝ようやくメールが使えるようになりました。今のところ、我が家は、震災による被害は、殆どありません。現在は、断水状態が継続しています。同窓生の被害が心配です。
今井 勝友(E36)
 

▼今東京にいます。常磐線不通で帰れませんが、家族全員無事は確認できました。しばらく常磐線は不通になりそうです。東京でしばらく、暮らす覚悟です。
早川 博(M36) 

 ▼やっと復電しました、お陰さまで被害は微少でした。断水だけで住居は異常ありません、一番の苦痛は通信手段無しでした。携帯は中継基地ダウン、固定電話は電源無し、文明社会は真に不便ですね。 浅川 茂(E29) 

 ▼那須町は幸運にも被害は少なく電気、水道も12日に復旧しました。我が家も物凄い揺れでしたが極めて軽微な被害ですみました。また日立市の息子の家も地震、津波の被害もなく助かりました。村上様のお心使いに重ねて御礼申し上げます。皆様にも宜しくお伝え下さい。 
飯窪 利昭(E38) 

 ▼自宅の屋根瓦がほとんど落ちてしまい、その片付けで疲れていますが、家内とも無事に過ごしています。今はブルーシートの確保に苦慮しています。寝泊りは、近くに住む息子夫婦のところで過ごしています。皆さまも、それぞれ大変かと思いますが気長に焦らず頑張りましょう。 
中田 豊哉 (E34)
 

 
▼新築して直後に起こった大震災、びっくりしましたが家族はみんな元気で過ごしております。被害にあわれた同窓生の一日も早い復興をお祈りいたします。
網倉 聖紀(E33)


                              

▼小生宅は屋根がやられました。幸い家族は元気で安心しています。復興は時間がかかると思いますが一応応急処置はしましたので暮らしには支障はありません。電気も昨日18時に復旧しました。
まだ水は復旧のめどが立っていないようです。 3/15 
木内 昭男(E31)
 

▼光通信故障なのかようやくTEL,メール出来る様になりました。いつも有難うございます。
白川 武志(M34)


日立地区は電気が昨日、ガスは今日ようやく復旧しました、水道は未だです。従って今朝、市役所の給水センターに行き水を貰ってきました。茨城以北の津波の被害は甚大だし、これに福島原発の大問題と合わせ先が思いやられます。
お互いに健康に気をつけて頑張りましょう、見舞い有難うございました。
川手 貞雄(M27) 

▼生まれて初めて震度6強を体験しましたが、想像以上でした。お見舞いメールありがとうございます。被害が大きくなく安堵しております。今は断水しているので飲料水・トイレ用水の確保が日課となっています。
飲料水は市の給水を利用と旧家の井戸水を利用しています。トイレ用水は市のプールの水を利用しております。食料品も少なく、並んで買い物しています。困るのは、ガソリン・灯油の不足が深刻で、長蛇の列なので車を使わず節約のため自転車を運動のためと思って活用しています。
しかし今度は放射能問題もあり、チョット気をつけないと思っています。同窓会皆様の無事を知り安心しております。余震に気を付けて頑張りましょう。 
深澤 弘義(M37)

 

▼生涯初の巨大地震に面食らいました。水は我が家では井戸でしたので電気がくればOKです。12日には、断水の家に給水しました。家の外壁にクラック、棚の物が落下、転倒防止してなかったPCが机の上から椅子の上に落下しましたが故障しませんでした。
12日勝田にある日立機械研究所の45周年記念総務部OB会が中止となり、大変がっかりです。しかし家内や子供、孫全員無事だったことが何よりでした。まだ、余震が警戒されます。同窓生一同様お気をつけて下さい。3/16  
古明地治光(E30)

 

▼いつも同窓会便りをありがとうございます。差し支えなければ皆様へ添付資料を配信ください。いま、福島原発が厳しい状況が続いているので、報道を聞き皆さんが不安に思っていると思います。私はこれまで放射線管理に携わったので、今報道されている被ばく放射線量(mSv:ミリシーベルト等数値)と人体影響について添付表にまとめてみました。法律に定められているもの、これまでの知見で知られているものです。今の状況を正確な知識のもとに、冷静に判断し、不安にならず、デマ等にまどわされないようにしなければなりません。原発の現状は、核暴走で炉が爆発したチェルノブイリ事故のようなものではありません。冷却水がなくなって、水素が発生、爆発したことで、一部のガス状、チリ状の放射性物質が外部に出ていると思われます。
深澤 国雄(M37) (牧丘町出身) 

▼日立市の藤原です、出身は韮崎です。甲斐の山々の動画、有難う御座いました。南アルプス、甲斐駒、八ヶ岳、綺麗に写っており懐かしく見させて頂きました。今回の地震、お陰様で家屋は大丈夫でした。家の中は花瓶が倒れたり食器が何個か割れましたが、損失は軽微ですみました。
今は、電気とガスは回復しましたが、水道はあと2~3日かかると思います。ガソリンがないので、飲料水の調達など体のために歩く事にしています。福島原発から100km離れています、格納容器の爆発が心配でテレビに見入っています。  3/18
 藤原 悦男(M32)
 
 
                             

 ▼3/11(金)午後2時46分頃は、常陸太田市鯨ケ丘通りの雛飾りを見ながら、俳句の仲間と「吟行会」を旧家(食堂)の二階で句会をやっている時に、突然、揺れだして、なかなか治まらず、外に逃げ出したところ屋根瓦がバラバラ落ちだし危険な状態が続きました。
道路の信号機は直ぐに消え、道路は混み出すし、道路が大揺れしている中を本山経由で何とか帰って来ました。旧い家ですが、増築の際、L形に作ったのが幸いしたのか、屋根の瓦が何とか助かりましたので、ほっと一息でした。
電気は、3/13(日)水は、3/18(金)復旧しました。ガスは、プロパンなので、止まる事は有りませんでした。これで今夜は、風呂に入れそうです。未だ当分の間は、耐乏生活が続くでしょうけど、お互いに頑張りましょう。3/18 
大柴 公夫 (M34)
@日立市中成沢町です。
 
                                                    

 ▼東海村では4日間避難生活を余儀なくされ大変でした。でもパン工場は昨日から給水されたのでさっそくパン作りを再開、JA関係の販売所に納めることが出来ました。自宅の方は先ほどから給水され、8日ぶりに今夜お風呂に入れるのでうれしいです。築40年の自宅の家屋はセメント瓦が少し落ちた程度でした
中村 正喜(M34)

 

▼いつもお世話になり、ありがとうございます。今回の地震につき、連絡が遅れて申し訳ありませんでした。当方旧内原町は、被害もなく平時の生活を送っています。当日は揺れが来てすぐ、テレビを点けて震源地が宮城沖まで確認しました。
近所の人たちも皆外に出て「恐ろしい」と言っていました。すぐに停電になり、一時間ほどで断水になりました。近所のスーパーは品薄ですが開店しています。ガソリン不足が大変なようで、近所のスタンドには連日2方向からの長蛇の列で、2時間ほど待って20リットル制限のようです。
昨日、自転車で水戸市内まで行ってみましたが、屋根瓦の落ちた家や塀の崩れた家があちこちに見られ、墓石も何か所も倒れていました。大谷石の塀の被害がほとんどで、御影石の大きなのも崩れていていました。 
笠井 光一(E43) 

                                                                                            
 ▼茨城は比較的地震の多い地域であり、私の認識としては常にリリースされているので、過去に大きな震度の地震もないし、また活断層もないので、そう大きな地震は起きない良い所という印象でした。
ですからこれほどの地震が起きたことは全くの想定外です。
なんと震度6強、このとき日立市平和通りのビルの2階のある研究所に勤務していました。ただ事ではない揺れに机の下にもぐりこむと山積みした書類が落ち、大きな音と共に、壁に亀裂が入いりました。古いビルなのでこのまま崩壊したら終わりかなと一瞬思ったほどでした。
経験したことのない大きな揺れが5分近く続いたように思います。その後ライフラインが一切絶たれた生活をしてみると電気のありがたさ、ガスのありがたさ、水のありがたさを痛感した1週間でした。ものが無い時代に生き抜いてきた私たちには昔に戻る生活に過ぎませんが、顧みるに便利さゆえにいかに資源を無駄にしているかも認識いたしました。
ものに振り回されないシンプルな生き方をこの大地震から教えてもらったように思いました。同窓会便りで先輩達が無事で過ごしていることも知る事ができ安堵しました。
 渡辺 孝(E36) 

 
                                                         

▼地震にみまわれた時、車が浮き沈みしたのには恐怖を感じました。我が家の被害は屋根瓦がずれた程度で助かりました。ライフラインは全て復旧しました。ガソリンが早く元にもどることを祈っております。健康には気をつけて下さい。
喆  小澤 照夫(M24) 

                                                 

▼日立では特に海岸に面した所は、被害が大きいです。私の所は海岸から少し離れており玄関のタイルが落たり、家の中の棚の茶器類など破損、壁に結構ひびがはいりましたが大きな被害になりませんでした。
毎日水汲み、ガソリン入れに長時間ならび入れられるのは、10リッタ-で2000円分です。今回は電気、ガス、水、等有難さがいやとゆうほど身に沁みました。まだ水道が出ていない地区もあり、大変かとおもいます。もう暫くと思いますので身体に気をつけてお過ごし下さい。3/20 
小林 一彦(E33)

 
                                                    

▼平常の生活の有り難さを切々と痛感しました。 
丸山 迪昭(E32) 

                                                                        
▼災害から2週間すぎてようやく家の中の整理が終わり、昨日は倒れかかった40mのブロック塀を全部撤去しました。取り去った跡はなぜか風通しが良くなり、もうブロック塀は懲りたのでプランターを置いてやろうと思います。
また液状化のため基礎の端が30cm沈み、家が傾いて地震の被害を改めて知った時、昨日調査に来た市役所の応急危険度判定士が「此の近辺では一番ひどいですね」と言いながら、「要注意」のイエローカードを玄関に貼って帰って行きました。
ちょうとせつない気持ちになりましたが「モノは考えよう、立入り禁止のレッドカードでなくて良かったね」と家内の一言で救われたような気がしました。 
3/24 村上 博靱                                                                                                                                                                                                

 

                                                                                  
震災から9ヶ月経ち同窓生も元の生活を取り戻した暮れの2011・12・10(土)午後3時から、ひたちなか市のクリスタルパレスで茨城同窓会を開催した。
当日はお忙しいなかを甲府より保坂精治会長や荒井千明事務局長、東京より小林務会長にご臨席を賜り総会、懇親会に参加して頂いた。

また作曲家の保坂ひろし先生(E33)には「作曲家人生よもやま話」と題して講演をお願いして「多難な人生経験のもと今がある」と語られました。

懇親会は予定時間を大幅に延長するほど盛会裏に終了することが出来た。茨城同窓会は故郷山梨を想う一人ひとりの心の中に宿る“絆”で結ばれています。これからも皆さんと一緒に茨城同窓会をより良く育てる所存でございます。最後になりましたが役員一同、甲府工業同窓生皆様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げるとともに、母校甲府工業高校の益々の発展を心より祈念申し上げご挨拶と致します。(敬称略)

      令和4年3月10日

   高原をかけ廻る乙女達     昭和32年度 土木科卒 雨宮二六(C32) (平成25年5月記)

私が初めて 清里高原を訪れたのは、今からちょうど56年前( 昭和32年)高校三年生の夏休みである 。その当時の清里駅前には、人家は殆んど数えるくらいしか無かった。

日用雑貨の傍らにお土産品を少し並べたお店と、駅から一寸下がったところに木造の旅館が一軒、それに並んで木造の民家が数軒と、別荘がチラホラ見受けられる程度で有ったと記憶している。

駅から歩いて二十〜三十分ほどの所にあった清泉寮へ通じる道路は田舎道そのもので、大きな石がゴロゴロ転がっており、道路脇の木々は埃をかぶって真っ白くとても歩きにくかった 。

その道路の両側の林の中には牛や馬が放牧されておりあちこちで顔を覗かせ高原の放牧地帯そのものであった。
清泉寮( ポールラッシュさん経営キープ協会)の周りの林の中には、Hokkido-Cabin.・Tokyo-Cabin-Osaka-Cabin等と名ずけられた別荘風の寮( 現在のコテージ)があちこちに建てられており、ちょうど東京のミッション系大学の学生さん達が大勢訪れ、夏休みを楽しんでいるようであった。

このような山間の中で、清泉寮が主催する夏のカンテイーフアイアーとして当時としては、日本では珍しいクロスカントリーレースが行われるとのことで、山梨・長野をはじめ・東京方面からも多数の選手が参加した。

我々甲府工業高校からも夏休みの合宿訓練の打ち上げを兼ねて長距離部員全員が出場のため当地に赴いた。
我々は、レースの前日に清里入りし、前述の当地ただ一軒の旅館に荷物を置き、休む間もなく、明日に備えて調整のトレーニ ングを行った。 夕食後、精神的な緊張をほぐすため、それ程賑わいもない駅前に、仲間を連れて散歩に出た。

程なくして、暗闇の中で花火の上がるのが目にとまった。近づいて見ると、そこには別荘に来ていた中学生くらいの女の子達( 英和女学院)が花火を楽しんでいるところであつた。

我々は、彼女たちが恐る恐る火をつけているのを見て 、点火役を引き受けることを理由に、その花火を殆んど取り上げた形で一緒に楽しんだ。 花火が終わつて立ち去ろうとした時、 彼女達から「別荘に遊びに来ないか?

と声がかかった。しかし、今回の清里入りの日的が先に述べたクロスカントリーレースである 。「 明日のレースを控えているので 、早寝をしなければならないから」と残念ながら鄭重に断り、その代り明朝ウオーキングの折に寄らせて貰うことにした。

翌朝、約束どおり、上級生三〜四人で 立ち寄ったところ、コーヒーなどを用意して待っていてくれた。静かな高原の早朝のコーヒーを御馳走に預かりながら「今日予定がなければ、クロスカントリーレースの応援に来てくれないか」と頼んでみた。彼女達は 大はしゃぎで「 みんなで応援に行く」と引き受けてくれた。彼女達の予期しない 回答に気を良くしてウキウキしながら宿に戻ると、いましがたの感激が何処くやら 、監督の先生のカミナリが待っていた。

正座させられ「団体行動を乱すような行動は許せない 」と怒られ、昏々と諭された。監督に皆で詫びて、レースの参加は事なきを得た。
さて、いよいよレースである 。

御存じの通り、クロスカントリーレースは、野を越え山を越え、小川を超え、牧草地帯や、大きな石の上を飛ぶように走る競技である。
この起伏の激しいコースで 、しかも合宿の疲れも出ておリベストコンデイションというわけにはいかなかった。

しかし合宿で十分走りこんでいたので 、距離についての不安は全くなく、どうやらトップ集団についていくことができた。後半に入り、疲れが出てきたあたりで 、旨い具合にあの女の子達の応援が待っていてくれた。

黄色い声援のおかげでゴール500m位手前で最後の力を振り絞り前の選手を追い抜き第二位に上がり入賞する事が出来た 。このとき、最後に迫い抜いた相手( 彼は三位)が、なんとその数年前ボストンマラソンで優勝した東京松屋所属の田中茂樹選手であった。

何といことだろう 。クロスカントリーレースとはいえ、こんな世界的に有名な選手にまさか勝てるなんて 、とても信じられない事で 、嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
 またこんな強い 選手に勝てたことは 、その後の選手活動に力強い自信となって発揮することができた。最近競技会で中茂樹さんとお会いする機会が有るけど田中さんもあの時のことを覚えていて懐かしい昔話に華を咲かせている。
 
表彰式では、上空からヘリコプターで来場された高松官妃殿下から直接大きな盾を戴いた。これもまた競技生活でたつた一度の経験で有り感激もひとしおであつた。
表彰式の後、たまたま取材に来ていた新聞記者 山梨時事新聞の駒井さん)が、日頃から面識が有ったこともあり、「あそこにいる、まるで高原に咲き匂うような彼女達を取材して貰えないか」と頼んでみた。

これが彼女達の声援に対して自分のできる最高のサービスで有った。 翌日の朝刊に 、ススキや名も知らない 草花が咲き乱れている清里高原を飛び廻っている姿が写真人りで「 高原をかけ廻る乙女達」という見出しで 紙面を飾ってくれた。

またレース後、 林道を歩いてくると、Hokkaido-Cabin等が点在する木陰では、 浴衣に装つた、お嬢さんたちが野点を楽しんでいた。それに見とれながら通りかかった我々に「 お客になってくれませんか」とここでもまたお誘いを受けることになった。

お茶の作法も味も知らない連中が正座して御馳走になった 。
日頃、女性にはとんと縁の無い我々が、何故かこの2日間だけは、青春の楽しい想い出を沢山与えてくれた高原で有つた。

                                                                                                                                                                               

 

                                                                                  


                                          

左;望月友利さん(委員長)右;川合伶奈さん( 副  ) 

写真口野道男さん
写真










「明野は晴れの日が多い」中学に着任した理科教師
口野道男さん(79)は、住民らのこんな話をよく耳にした。 

石油危機で、太陽光などクリーンエネルギーが注目され始めたころ。しかし、ここに気象庁の観測地点はなく、日照時間はわからなかった。

 「自分たちで観測したらどうか」 村おこしのきっかけになるのではと、口野さんが出した提案に、村が乗った。

翌1980年8月、中学の前に日照計などができ、観測が始まった。ガラス球の中の受光板が太陽光を受けると微弱な電流が流れ、記録紙に波形の線を記していく仕組み。

気象業務法で、 データを公表できる「届け出観測施設」となった。

計測するのは生徒たち。中学に気象観測委員会ができた。口野さんは「当時、『村』を卑下する子もいた。自分たちの手で日本一が証明できれば、郷土への愛着が生まれると考えた」と振り返る。

 そして1年後の1981年7月末、年間2796・8時間を記録した。理科年表(国立天文台編)に載っている全国80カ所の値と比べると、数百時間以上長かった。生徒たちは歓喜した。

 甲府地方気象台や口野さんによると、内陸部の山梨は、南アルプスなど3千メートル級の山々にさえぎられ、西からの湿った空気が流れ込みづらい。

特に明野は、年間を通じて低地の川沿いを風が吹き抜け、雲をつくる上昇気流がほとんど生じないという。                               

生徒たちの観測は今も続けられ、今年で33年目になる。参加した生徒は500人を超え、毎年、日照時間や気温、降水量の報告書をまとめてきた。


委員長を務める
望月友莉さん(3年)は「長く続いているのは、すごいこと。責任を感じます」。

学校や市の教育委員会には、近くの農家や県フラワーセンター(ハイジの村)などから「作付けの参考に」と、データの問い合わせがある。                 

 「日本一」をきっかけに明野村は「太陽の村」構想を掲げ、太陽光発電の導入など今に続く流れをつくった。

町村合併の前に始まった「サンフラワーフェス」は昨年で20回目を迎え、満開のヒマワリ畑が映画のロケ地としても有名になり、観光客20万人が訪れる。           
                                

口野さんは「歴代の生徒たちが、ふるさと振興の一翼を担ってきた。誇りに思います」と満足げだ。

 《日照時間》 明野中が観測した北杜市明野町の日照時間は昨年、2533・2時間。     

気象庁の観測地点154カ所(アメダスなどを除く)で、各都道府県のトップをランク付けすると

(1)浜松(静岡)2386・2

(2)伊良湖(愛知)2321・3

(3)甲府(山梨)2306・6

(4)諏訪(長野)2245・6

(5)潮岬(和歌山)2245・5。

明野町の値はこれらをしのぎ、北杜市は「日本一」の日照時間が証明された。 資料;朝日新聞




甲州人国記  “異国に心宿しつつ” ⑳   昭和58年   最終回        令和4年3月8日     村上博靱

七十九歳になる慶大名誉教授前島信次は、『アラビアン・ナイト』(平凡社・東洋文庫)全十五巻完訳の筆を執り続けている。英訳本や仏訳本からではなく、原典からの翻訳だ。四十一年に第一巻を出し、いま十二巻。

「完結まであと五年はかかる。寿命との勝負です」。『千一夜物語』の名でも知られるこの庶民文学は、九世紀にわたって完成したイスラム文化の縮図。「アラブ人は、オイルだけで付き合ってもらっては困る、とよくいいます。ほんとの文化交流が大切な時代なんです」

アラビア学、オリエント世界研究の先駆者・前島は八代町のうまれ。父で九代目の医家。土蔵にあった『史記』『楚辞』などの漢籍が、西域への見果てぬ夢をはぐくんだ、と回想する。大病後の句に、この秋も生きる 甲斐路の紫玉かな 

前島と東大東洋史の同僚に、お茶の水女子大学長をした中大教授市古宙三(69)甲府市生まれ。御坂町育ちの神奈川大教授網野善彦(55)は中世史に取り組み、国内外に、「常民文化」の変遷を探る。

青山学院長・理事長の大木金次郎(78)は、日本私大連盟会長や文部省の私大審議会会長も兼ね、私大運営に奔走する学院のカオだ。

甲府のレンガ製造販売の家に育ち、甲府商業を出て当時の朝鮮銀行へ勤める。ソウル支店長に「もっと学問をしては」といわれ、牧師の口ききで青山学院に入ったことが道を開く。昭和四年、学院のはからいで米国留学、新知識を身につけてきた。

四十八年、国連本部の総会に民間代表として出席した大木は、ロビーでの自由討議に走り回る。「その折、国際人を育てねばと痛感した。

英語力はあるが仕事は出来ない、仕事は出来るが英語力はない、と国連本部で吹き込まれて」と、新設の国際政治経済部に力を注ぐ。

山梨大学長が町田正治(70)、名工大学長が武藤三郎(63。共に旧日川中出身。生科学研究に新分野を開いた大阪名誉教授須田正巳(67)は春日居村の医家の生まれ。科学史の元大阪市大教授原光雄(73)は白州町育ちだ。

画家増田誠(62)はパリに住んで二十六年目になる。「いつでも生身の自分を出して生きていきたい。よくも悪くもね。私の絵を育ててくれたパリには、やはり風が吹いているよ」。

谷村の生まれで、流し職人の父を早く失う。旧制都留中を出て代用教員、軍隊、北海道入植、看板業と遍歴。パリでは受賞を重ね、日本人画家を代表する絵描きとなった。

「美術学校へ行くほど絵は下手ではなかった」。独学の絵はパリ下町の哀歌ととらえ、聖書に題材をとり、ドン・キホーテを描く。「自分がドン・キホーテだから」。天衣無縫を気取るが、「女房に監視されながらパリでは一日十時間は描きます。

パリの増田の友が、都留中先輩の駐仏大使内田宏(64)。旧制静岡高で首相・中曽根と同級。「富士を眺めながらソバを食べたい」。


成田空港で苦労した元新東京国際公団総裁
今井栄文(71)も都留中同窓。俳号湖峰子。同中の大先輩桑原幹男(87)は愛知県知事に六選され、大中京の基礎作りをした。

ピアニスト中村紘子(38)は、「聡明な女」といわれる。十五歳で毎日音楽コンクールの一位となり、ショッパン国際コンクールでも最年少者賞を受けて国際的に活躍。エッセーをものし、夫の作家庄司薫(45)のために料理の手を惜しまない。


塩山市の生まれ。母の手で育ち、ピアノのスパルタ教育を受けた。「けれど、自分の音をつかんだと思ったのは三十過ぎてからなんです」「芸術は、突きつめると血の問題だと思います。だから、改めて生い立ちや民族音楽を考える。


子供たちの帰宅を促す町のメロディーが外国音楽だと、血が逆流しますよ」甲州人国記はこれをもって終わります。(敬称略)資料;朝日新聞




甲州人国記  “若アユと突貫小僧” ⑲   昭和58年            
令和4年3月7日     村上博靱

水温二十八度。甲府スイミングクラブのプールで、英和高三年輿水秀香の十八歳の体が、水に溶け、水を切る。「水に入ると魚になったような感じです」。

強化合宿の時は一日二万メートル、学校のある日は七千メートル。168センチ、六十二キロ。山口百恵と薬師丸ひろ子のフアンという色白の少女は、ひたすら泳ぐ。

山国の少女が昨年夏、四百メートル個人メドレーで4分58秒98の記録を出し、日本女性として初めて5分の壁を破った時、「ヒデカがんばった」と甲府はわいた。

昨秋のアジア大会では、5分2秒台の記録で一位。今春、英和短大国文科へ進む秀香はロサンゼルス・オリンピックの時は二十歳になる。

『謀殺・下山事件』の著書がある元朝日新聞記者、富士見育ちの矢田喜美雄(70)が、早稲田時代、走り高跳び五位に入賞したベルリン・オリンピックから、もう半年近い。

社会部記者として、体当たりで戦後の暗黒史に挑んだ矢田は、モノ書きとして健在だ。

秀香のコーチ古屋哲男は、世界選抜の名ウイング、ラグビーの藤原優(29)を育てた日川高でラグビーをした。「水泳は専門家じゃないけど、ラグビーの鍛え方と同じ基礎訓練をします。秀香はついてきますよ」と古屋。

一宮町育ちで早稲田ラグビーの黄金時代を築いた藤原は、いま丸紅自動車第一部の商社員。「日川高にはいい選手がいるのに、全国決勝まで進出できず残念です」。

秀香はカラっ風を突いて、毎日九キロの道を自転車でプールに通う。小さな子の面倒をよくみるお姉さんだ。

秀香が山国の若アユなら、佐野稔(27)は精進湖が生んだ氷上の曲芸師。「父に連れられ、小学校一、二年のころから自然結氷の湖で滑りました」。
日大時代、東京でのフィギュア世界選手権で、見事な三回転ジャンプをこなし自由演技では最高得点。日本初のメダル(銅)を獲得したのは五十二年春だった。「自分の持っているものを出し切った満足感で泣けました」。

その後はプロスケター。チームで氷上ショーを展開する。

佐野は石和町の旅館の末っ子。小学校五年の時から親元を離れ、川崎市へスケート留学した。「一日八時間の練習というスパルタ教育ですからね。くたくたになって、さびしいなんて感情はわからなかた」。今も一日三時間の夜間練習は欠かさない。

クールなさわやかさを買われて、テレビニュースのスポーツキャスターや歌謡番組の司会も。「上っつらだけ、なでるようなスポーツ報道はしたくない、選手のほんとの姿を伝えたい、と心掛けてるんですが、時間的な制約で難しい。ボク実は、感激屋なんです」

富士桜栄男(35。「突貫小僧」といわれた大相撲の突進男は、この三月、初土俵以来満二十年の場所を迎える。まさに根性相撲で、通算連続出場千六十五回は史上第一位の記録である。幕内出場も千五回を数えた。

「体がちっちゃいですからね。いつもけいこをやってなきゃあ勝てない。甲府の先輩の富士錦関、いまの尾上親方には、マワシを取る相撲をするとこっぴどく怒られた」。

長男の富士桜は、甲府の農家の跡取り息子。「百姓がイヤで。新弟子検査の時は、水を飲んでメシを食って七十二キロ体重を七十五キロに増やした」。

夫人の息子、娘の住む自宅から高砂部屋へ自転車で通うのも、精進のうちだ。「車なんか持ってないす」。故郷へは電車で帰る。

「いくつまで相撲をとるなんてまったく考えてなんかいない。ただ、押せなくなったら終わりで」。

「升々酒」の酒豪も、「今は、翌日残るから、ふだんは家でビールの子びん二、三本」と節約する日が続く。

(敬称略)資料;朝日新聞
      




甲州人国記  “ブドウ園の交響詩” ⑱   昭和58年
    令和4年3月6日         村上博靱

「野のひびきは調律され 一房ごとに 音楽を蜜封した」 ブドウの園丁詩人を名乗る勝沼町の曽根崎保太郎(68は、詩集『ぶどうの四季』で<出荷の支度>をこう歌う。

自分でブドウ作りをし、共同で観光ブドウ園「甲斐路クラブ」経営する曽根崎は、見知らぬ人の唇の中で、ブドウの粒が、限りない交響詩となれと祈るのだ。いま全国一の生産量を誇るブドウと桃は、既に江戸時代後期、幕府に献上されたと記録に残っている。ブドウに寄せる甲州人の思いは深い。

旧制日川中出身の曽根崎の後輩に、詩人の杉田巌(57石原武(52)。杉田が初代理事長となった山梨詩人懇談会には、七十人の会員。

文教大教授の石原は日本現在詩人会常任理事で、詩誌『地球』の編集長。石原ら後進を育てたのが山梨詩人協会長
内田義弘(76)。長く高校教諭、甲府工業高校教頭を努め、二十一校の校歌を作る。近年、笛吹川畔に詩碑が建った。内田の詩も風土に根ざし「笛吹川の詩人」の名。

 
甲府在住の詩人
小林富士夫(65)は、近著に『蛇笏百景』。万緑賞受賞の俳人加賀美子麗(72)は、甲府で会社社長。『文学と歴史』主宰の作家今川徳蔵(63)、農民文学の山田多賀市(75)郷土作家の中村鬼十郎(72)も古いブドウ樹のような年輪を見せている。

 甲州ワインマップも作られているほどで、ワイン醸造企業は八十八社。全国醸造量の六割を占める。明治十二年、フランス留学から帰国した二青年が、甲州ブドウから五百四十リットルのワインを作ったのが本格的事始め。一宮町の甲州園は、明治十八年創業を誇る。

甲府サドヤ醸造場は、明治年間の倒産ブドウ酒会社を引き継ぎ大正六年の創業。世界中の八十四種を集め、ワイン造りの十余品種を精選、栽培した会長今井友之助(72)の研究が、サドヤワインの名を高めた。


今井は、日本で最初のワイン用コンクリート貯蔵タンクも考案している。長男の社長裕久(34)は、フランスのモンペリエ国立高等農学校で学んだ。


「ワインはブドウの品質が決定的なんですよ」。専用のブドウ園を持ち、七百二十ミリリットル三千八百円の高級ワインは原料に限りがある。と出荷制限。


「思い通りのワインを造っています」と裕久。従業員はわずか十人。早稲田山岳部のOBの友之助が、外地で二十五年間撮り続けた山岳カレンダーも名物だ。

洋酒のサントリーは、甲府盆地の北、双葉町の百五十ヘクタールに、ブドウ園と醸造工場と、ワイン博物館を持つ。ここから、日本の風土、気候では無理といわれた貴腐ワインが生まれた。白州町にはウイスキー造りの拠点がある。

大蔵省関税局長をした副社長の吉田富士雄(58)は、「南アルプスからの水が実にいいんです」。旧制甲府中出身の吉田は、東大法学部で知事・望月と同級。

山申会より幅広い在京経済人の「かえで会」の世話人として、県政に注文をつけている。「八ヶ岳山ろくに開発の手が伸びているが、乱開発は防がなきゃあ。

農工両全が山梨の姿なんですよ」。武田勝頼没後四百年の記念祭をとりしきる。

吉田の妻寿々子(30は、山梨日仏協会副会長としてパリ留学の語学力を生かす。「協会にはワイン会社が三十五社が入っており、宝石、ニット業界の日仏交流も盛んです」。山梨高出身。

大蔵省の吉田の後輩に、現財務官の渡辺喜一(57)。「酒は中学高学年から」。吉田の先輩に関東財務局長をした泉州銀行頭取中込達雄(65)。ともに旧制甲府中出身。

同窓に労働省の役人北大教授、現日大教授の石原孝一(62)。東芝セラミックス社長の村松文雄(63)は旧制甲府中の野球部員。同中は石橋湛山をはぐくんだ学校だ。(敬称略)資料;朝日新聞
 


  




甲州人国記  “信玄公あればこそ” ⑯   昭和58年
          
    令和4年3月5日   村上博靱

詩人土橋治重(73の第六詩集に、『サフランシスコ日本人町』がある。果樹農業を実地に体験しようとカリフォルニアに渡った父の後を、大正末、旧制日川中四年の土橋も追った。

人種差別の白い目に刺され続けた十年間の下積み生活。くぐもった思いを四十年後につむいだ詩集の中に、シスコ郊外での<ピクニック始末>がある。

熱いおほうとうを吹き、酒をあおる甲州移民のピクニック集団に、「居なければならない」紙ヨロイの武田信玄が登場するのだ。「泥酔した信玄はハイウエーで車を次々にとめ、警察に留置され、ピクニックは以後、禁止となるーといった詩のあらすじだ。

第七詩集が甲州方言を生かした『甲陽軍艦』。「甲州人でなきゃあ、信玄公は書けんさ」。そんな自負がある。

甲州・山の民の英雄武田信玄。十五世武田昌信(65は、東京農大に勤める気さくな庶民だ。法務省暮らしが長く、甲府地方法務局の人権擁護課長もした。

信玄の四男勝頼が天目山で自歳して戦国武将としての武田は滅びる。次男信親も自決するが、子信道は僧となって生き延びた。

子信正と伊豆大島に流され、流転の生涯。系譜は絶えず、昭和二年、昌信の父信保が「信系の正系」として従三位を贈られた。「当時、子爵にという沙汰もあったが、父は謙信の上杉家が伯爵なのにランクが下なのは困る、断った」と信昌。川中島は生きていた。

「ご先祖を辱なめるなということで、ずいぶん気をつかって生きてきましたよ」と十五世はいう。四十七年、仮装行列の信玄公になり、ヨロイ姿、白馬にまたがり甲府の街へ。「あんな窮屈なモノとは知らなかった」。

柳生子爵家出身の母
綱(78は、「信玄公の甲府へ住みたいね」。十五世は「いや、東京の方が気が楽ですよ」。

甲州には昌信を最高顧問とする「武田家旧温会」があり、会員三百人。相談役は『定本武田信玄』の歴史家、山梨大名誉教授磯貝正義(70

岐阜県育ちの磯貝は、山梨に赴任した時、強烈な甲州人気質を感じた。つづめていえば「信玄公の国」ということになる。現在まで残った集落の親分・子分関係は、甲州軍団の戦闘組織の名残、と磯貝。

「信玄堤一みても、信玄は合理主義の民政家だった。幕府の圧制下で信玄への思いはふくらんだし、貧しさと闘う力のよりどころでもあった」

山梨日日新聞、山梨放送社長の小林茂(59は、山梨郷土研究会長でもある。複雑人間である信玄研究のおもしろさ。郷土佐藤八郎(73は、信玄は戦国武将の中でぬきんでた詩人です。

京都五山の学僧が、武家がこんなすごい詩を作るとは嘆賞したほど」と目を細める。佐藤は十七年かけ『甲斐国史』の校訂と一万八千項目の索引を完成させ、雄山閣が出版した。

県下には原本がなく、韮崎市の自宅から内閣文庫まで列車通勤した歳月もある。「昼食抜きでやったが、ほれて通えば千里も一里で」

江戸時代、国志編纂の郡内編を受け持ったのが学者、森島弥十郎。八代目の東洋曹達工業社長森島東三(63は先年、編纂資料を都留市に贈った。

「それは遠い昔から流れ続けている家の中の川なのだ」と、作家辻邦生(57、山梨県立図書館で、「辻家古文書」の和紙をめくった感動を最近の創作に書いてある。

辻は東京生まれだが、先祖は代々甲府の医家。明治四十年の大水害後、出京した。辻家古文書は、信玄以前の武田と武将・辻家の関係を伝え、辻は身にしみて甲斐の風土を感じた、という。辻の本籍は甲府だ。

(敬称略)資料;朝日新聞   



       




甲州人国記  “「病む」を見つめて” ⑮   昭和58年       令和4年3月4日    村上博靱



十年前、舞台の奈落への転落が参議議員八代英太(45の人生を変えた。背骨の中の神経の束が切れた。再びつなぐことは出来ない。立てず、歩けず、排せつも思うままにならない。車イス人生のスタートである。

バクチと女好きだったタレント八代が、いま、いつも胸の中でかみしめるのは、「苦しみの中から喜びが生まれる」という言葉だ。

「死んだ方が楽だ」という奈落の底から見た人生は、まるっきり違っていた。道路、乗り物にせよ、公共しせつにせよ、この世は大人の平均人間を標準に作られている。しかし、障害者や大人の自立を助けない社会が、果たして正常なのか。

弱者切り捨ては、社会的マイナスではないのか。いや、全ての人間が、障害者、弱者予備軍ではないのか。「やれば出来るんです。国会議事堂も車イスで入れるようになったが、最初数億円かかるといわれたのに五千四百万円ですんだんです。

その八代に、参院全国区の新選挙制度は、弱者、少数者の声を締め出す「ファシズムへの突破口」と映る。「優秀人種」を呼号し、「壮健な兵士」づくりを国是としたのが、ナチズムであり日本軍部だった。

「車イスから挑戦します」。八代町の農家の生まれで、八人兄弟の六番目。「転んでもタダで起きるなと育てられました」

「戦時下では、医学部が何をいおうと、弱者、病人は見殺しにされていった。弱者の側から見れば、医療と社会のひずみはスケスケです」。

こんな立場から、医師、医事評論家の
川上武(57は、大作『現代日本病人史―病人処遇の変遷』をまとめた。自分で診察し治療する医師として、「よらしむべし知らしむべからずの医療にするな」が一貫した発言。若いころ大病院で、腎炎を結核と誤診された。「医療をきちんとする基準は、管理でなく技術なんです」

「こんな仕事を続けなければボクも高額所得者になったな、と医者の女房とよく笑いますよ」「所得と、わが子をどのように医者にするかで躍起のゼニゲバ医師たちの腐敗が、医療差別の裏にあるんです」。塩山市生まれ。

たった一つの命は自分で守るしかねえ。貝原益軒が『養生訓』で、毎日の生活で健康に悪かったと思うことはよして、良かったと思うことだけをやりなさいといっているが、よしあしは十人十色。

寝起きが気分爽快だったかどうかで判断すりゃいいんだ」。元国際外科学会会長の
中山恒明(72は、ベランメエ口調で意気軒高。東京・銀座で中山ガン研究所を開く。

国際外科学会から「世紀の外科医賞」を受けたがん手術の開拓者だが、いま手術はやらない。「医療機器の進歩で、教科書通りにやれば下手クソがやっても安全な時代になったよ」

千葉大学医学部教授時代から、「天衣無縫(てんいむほう)の銀ラッパ」のあだ名。「戦前、アルコール性肝炎なんてのはなかった。ありゃあっ安酒に入ってるきょう雑物でなる薬餌(やくじ)性肝炎だよ、君」

「新宿の浮浪者も栄養過剰の糖尿病というくらいで、栄養とり過ぎで血管ボロボロというのが、うじゃうじゃしている」。「オレは四十歳の体型だ」と誇った。白州町が故郷。

「国民所得二位なんていっても、日本が豊かになったとは思わない。欧米に比べ蓄積がない」と国民所得分析の権威、 一橋大学名誉教授山田雄三(80。社会保障研究所長や厚生省の各審議会会長として、福祉施策の大綱をまとめてきた。

「軍拡が声高になり、武器産業が活気づく時代の弱者切り捨て論は、危険ですね。いまこそ福祉国家が必要なんだ」。倒産した甲府の漆器問屋で育つ。

(敬称略)資料;朝日新聞            




甲州人国記  “文化づくりを担う” ⑭   昭和58年
       
 令和4年3月3日          村上博靱

奥秩父の山中からやがて甲府盆地を流れ、富士川に注ぐ笛吹川は、みやびた名にも似ず、しばしば大きな水害をもたらした。

鋭い山ひだを縫って走る水が豪雨で鉄砲水となり、せせらぎを逆巻く濁流に変える。いまは石和町となった甲府盆地のド真ん中の富士見村は、明治四十年の笛吹川水害で壊滅的な打撃を受けた。

畑と田のほとんどが砂にうまり、流出四十戸。同年のムラの収穫ゼロ。一人平均八十一円の借金を負い、不毛の土との格闘が続く。

富士見村村長をした農業
稲村半四郎(76は先年、聞き書きをもとに『富士見村70年の歴史』をまとめ、村人たちの苦闘史を掘り起こした。


稲村は、『ある農婦の一生』『農民のしあわせを求めて』『村に生きる先人の知恵』などの著作がある農村指導者である。笛吹川畔の簡素な住まいには、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の拓本が掛けられていた。

       その詩の道を稲村は歩いて来た。県立蚕業学校を首席で出た篤農青年は昭和初期、農民運動で投獄される。「お正月に刑務所ではタイの切り身や、リンゴが丸ごと出た。村では食べたことのないごちそうでした」。

笛吹川の土手に立ち、毎夜、刑務所の方を見つめていたという病気の母は、出所前に死んだ。

「政党運動でなく、オレなりに村づくりを」という稲村の「オロオロ歩き」は、新生活モデル村、果樹のテニス村、として戦後花開く。「おんな衆に財布を持たせる運動」を二十年代にやったように、一歩、また一歩だった。


本気に地域の歴史に学ぶことが文化づくりにつながる」と稲村は思う。人口二千百人の勝山村で、老人たちのザル学校や紬学校、臼ひき学校を開設して生きがいをよみがえらせている村長
流石喜久巳(53の試みも、地域文化を築く運動だ。

広島生まれで日本被爆者団体協議会代表委員の山梨大教授
伊東壮(53は地域経済の研究者だが、「稲村さんたちの仕事を見ていると、原点―歴史と庶民の立場から経済社会をとらえ直す必要を痛感する」という。

「日本が近代化する過程での経済社会のサンプルが山梨。甲州財閥を生んだ草の根資本主義の発生も早かった」と伊東の指摘。養蚕地帯を背景に、甲州商人は「山峡の貧乏脱出」をかけて、東京へ、横浜へと出て行った。

「戦前、やり手の甲州商人の評判は悪かった。オカネばっかり愛するのが甲州人ではない、と会を始めたのよ」と山人会会長望月百合子(82。山人会は大正末年創設され、いま山梨ゆかりの文化人三百人が集まる。

望月は、社会主義、無政府主義の草分けだった石川三四郎の娘。小学校まで母の実家の甲府で育った。女学校を出た大正八年、読売新聞婦人部記者。「もっと勉強しろ」という父に連れられ、パリ大学で西洋史を学ぶ。

昭和十二年には新京(現長春)に行き、満州日報記者。「中国人を人間扱いしない開拓政策がたまらなかった。見た通り書く

でしょ、関東軍にニラまれたよ」



戦後は語学を生かして翻訳、著述。サバサバと「先憂後楽の志は持ち続けるわよ。ほら、ウチは最低の生活でしょ」。平等社会を願う八十二歳の娘といった感じの望月が、「文化的な仕事をする甲州人が一人でも増えてくれれば」と山人会の旗をふる。会員の一人、小沢春雄(61)は通信機械工業会専務理事。

前電電公社総裁理事で、学歴社会をえぐる異色小説『人事異動』を書いた。「電電山梨会」には三千人が結集している。「徒手空拳で出て来て道を切り開くのが甲州人。郷党意識は強いですよ」(敬称略)資料;朝日新聞
 


甲州人国記  “受験文化の時代に” ⑬   昭和58年                  令和4年3月2日       村上博靱

文化放送会長、全国朝日放送会長で放送界にも大きな発言権を持つが、なんといっても「豆単の赤尾」のイメージが強烈だ。旺文社社長の赤尾好夫(75

「豆単」、つまり『英語基本単語熟語集』は千二百万部売れ、『総合的研究』の方も二百五十万部。受験雑誌『蛍雪時代』も月三十万部をくだらない。昭和六年、郷土石和町の父親に借金して、東京外語大卒業以来手がけた受験指導の仕事だから、半世紀を越える。

「小林中さんに『山申会』入りを勧められ、私は財界人じゃなく出版人だから入りません、と断ったら怒られた」と笑う。少年のころから「文章で身を立てよう」と思いを定め、外語時代は校友会誌にファシズム批判の巻頭論文を書いて学生課長に注意された。クレー射撃の名手で、猟にまつわる近著『猟人夜話』を川上徹太郎は、「一芸の達人文章」とほめている。

「七十五を過ぎると人生余禄ですよ。念頭には毎年、声の遺書を吹き込む」。昨春、「親不幸をした」母親の生地一宮町に、「きてみれば桃紅に野を染めて夢路さまよう春のふるさと」の石碑を建てた。

反骨の論客だった旧日川中時代、同級生の親友に建設事務次官、水資源開発公団総裁をした
山本三郎(73。須玉町育ちの名古屋放送社長川手泰二(71は、朝日放送の名うての事件記者だった。豪放さが持ち味。


東京の学校群制度の生みの親、文京大学長の小尾乕雄(とらお)(75は、長坂町に育ち旧制諏訪中卒。「甲、信の両棲(りょうせい)動物ですよ」。

甲州現実主義に信州教養主義が接ぎ木された趣。文京大は軌道に乗り、「もうまかせている」。群教育長時代の学校群制はポシャッタ。

「高校受験過熱へのショック療養にはなった。超名門校が消えたよ」。孫が九人。「今の子は人と仲良くしない。人間差別の偏差値教育は親殺しに結びつく」。



      小尾は国語教師として教壇に立った経験を持つが、国語教育の推進者が須玉町出身の
輿水実(75。国立国語研究所の名誉所員だ。

戦後、教育指導要領の作成に当たり、「だれにも出来る近代的、合理的な国語教育」を目指した。主宰する「国語教育近代化の会」には教師八百人。

言語哲学の学者は、「国語の力は全教科の基礎力です。すべての学習の根底にある学として、国語教育をとらえなくてはいけない。言語文化の教育なんですから」。授業時間の少なさと国語力の低下を憂える。

「学生が無気力で、創造力も想像力も退化している。想像力がないということは、他人の痛みをわからず残酷なことも、平気でやれるということですからね。



共通一次の毒が回ってきた」と、法政大教授で国文学者の
小田切秀雄(66。戦後、清新な文芸評論活動を展開して来た想像家は「昭和軽薄派とでもいえる、その日暮らしの軽文学、うつろな風俗小説が、文学の名で横行している。

小説が売れなくなって当然ですよ」。旧制高校時代、治安維持法で逮捕され、十手で拷問された体験をもつ。自由にモノがいえなくなる管理社会への抵抗を胸に、いま『昭和の思想と文学の五十年』を書く。


小田切の父は牧丘町出身で、根津財閥系の証券会社役員だった。学生結婚した妻の医師みゆき(68は、初代牧丘町長の娘。小田切の実弟が、近代文学館理事長、立教大教授の小田切進(58.精魂傾けた文学の殿堂は、樋口一葉日記などを資料に、『近代日本の日記』に取り組む。

中世国文学の日本学士院会員、東大名誉教授市子貞次(71甲府市生まれ。小学校一年まで住む。初代国立国文研究資料館長をし、古典の戸籍簿作りに精魂を傾けた。

(敬称略)資料;朝日新聞


   



甲州人国記  “政争の国の男たち” ⑰   昭和58年         令和4年3月1日      村上博靱

昨年、全国区でも数少ない八選を果たした山梨市長の古屋俊一郎(73は、「現金で買収してでも票をもぎとろうという甲州選挙の伝統は、まだ生きていますよ」と苦笑する。

国家、自治体選挙のたびに、現金買収の運動員が摘発される激しい甲州選挙。せまい山峡の中で、濃い血縁、地縁。それに、利益集団の利害がからみ、主義、主張より人と人との争いが、甲州人を熱狂させてきた。


例えば県知事選。初の県人、民間人知事天野久(故人)は、保革合同のミコシに乗って登場した。四十二年、自民党の天野五選を阻んだのは、やはり保革合同勢力にかつがれた代議士田辺国男(69

その田辺は五十四年、社会党と代議士
金丸信派の保革連合が推した現知事望月幸明(58に敗れ、知事の座を去った。当選九回の田中派の大幹部金丸信は、天野久の政治人脈に連なり、天野は少年時代、田辺の生家でデッチ奉公をしている。


建設相、国土庁長官、防衛庁長官を歴任し、四期、自民党の国対委員長を務めた、金丸 信は「足して二で割る政治家」。蔵相・竹下登の長女が金丸の長男の妻という間柄だが、「竹下とオレと足して二で割ればちょうどいいわ」と金丸の弁。

親しい友人に小佐野賢治の名を挙げ、「努力家だ。カネはあっち(彼岸)まで持っていくもんじゃあねえだ、と話している」。



知事選では社会党と手を組み、野党への柔軟さが買われ国会対策を切り回した。半面、「日本戦略研究センター」を主宰者として、国防問題タカ派という振幅のおおきさ。

「お互いに立場立場がある。独裁はいかん。至上命題さ」。そして、「中曽根支持を田中派が決める時は、日本一中曽根を嫌いな金丸がかつぐんだ、派のため、田中のため、とぶった。世の中皮肉なもんで、中曽根支持のまとめ役をした」。

「田中角栄への義理を果たす」といい切り、無冠の太夫を自称する金丸の事務所に、陳情客がひきも切らない。最近、糖尿病で断酒をした。


田辺前知事の四選を阻止した保革連合のスローガンは、「貴族的、消費型県政から庶民的、先導型県政へ」である。鈴木内閣の総理府総務長官をした田辺は、毛並みがいい。父は戦前、カミソリ将軍といわれ政友会幹事長もした田辺七六。叔父が実業家小林一三。

知事・田辺と山申会のつながりも深かった。「塩山の家の火事で焼けてしまったが、横山大観や竹内栖鳳の絵がかなりあった」と田辺。七六は、政治教育はしなかったが、「この絵はどうだい」と画評を求めた。


田辺の美術鑑賞眼が知事時代、県立美術館のミレーの絵に巨費を投じさせた、といえなくもない。総理府長官時代は、「公務員給与の人事院勧告凍結は、行革のスジ違い」と当時の中曽根行管庁長官と激しくやり合った。

「金鵄(きんし)勲章復活でも、無理だよ、と一論議したんだ」。一本気と人のいう坊ちゃん気質。金丸と対照的だが、「当面、福田派の閥務に専念ですよ」。


富士急行社長の堀内光雄(53は、祖父良平、父一雄を継ぐ代議士三世。副知事をやめ田辺に決戦を望んだ望月は、戦後、東大を県職員の道を歩いてきた。金丸とは旧制身延中の同窓。「生まれも育ちも庶民で」。身延のものは声がよい」という甲州盆歌の一節を歌って聞かせた。


「江戸時代、お代官(でーかん)に痛みつけられた貧しい甲州から、うまし国山梨への脱皮を遂げたい。水と空気と山の良さを、他国の人が見直してくれてます」。日本列島のヘソに当たる山梨はいま、文化の時代を迎えている、と最近、甲州文化論に熱を込める。

「非核都市宣言」をした甲府市長三期目の河口親賀=ちかよし=(67)は、県労連議長が政治の振り出しだ。(敬称略)資料;朝日新聞  

       


今こそ宰相・湛山に注目 山梨県出身名言数々含蓄に富む   昭和58年        令和4年2月28日   村上博靱


昨年、山梨県選出国会議員の輿石東氏が野党の幹事長に就任して話題になったが、かつて山梨出身の首相がいたのをご存じだろうか。その名は石橋
湛山


政権は短命に終わったものの、言論人出身の湛山が残した言葉には含蓄があり、今でも十分通用する。

「政治家の言葉が軽くなった」と言われる昨今。名言を振り返りながら、今の政治のありようを考えたい。東京の日蓮宗僧侶の家に生まれ、間もなく甲府市に移

り住んだ。小学生の時、父親の転勤に伴い、長遠寺(じょうおんじ)南アルプス市鏡中條)の住職・望月日謙に預けられて薫陶を受ける。その後、甲府市内の旧

制中学(現在の甲府一高)に進学。「少年よ、大志を抱け」で知られるクラーク博士の教え子だった大島正健校長から米国流の民主主義を学ぶ。早稲田大では

哲学を専攻し、文学科を首席で卒業した。 

2007年5月に開館した甲府市朝気の「山梨平和ミュージアム石橋湛山記念館」。その2階では、湛山の写真や論文を展示し、その生涯と思想を紹介し

いる。
浅川保理事長は「湛山の構想はスケールが大きかった。人格形成期に山梨で仏教やキリスト教の精神を学んだことがバックボー

ンにある」と話す。「民主政治は往々にしてご機嫌を取る政治になる。

国の将来のためにやらなければならぬと思っても、多くの人から歓迎されないことだと、実行を躊躇(ちゅうちょ)する。私は皆さんのご機

嫌を伺うことはしない。嫌がられることをするかもしれないから、そのつもりでいてもらいたい」 湛山の引き際の良さを今に伝える有名な

文言。前述の演説から間もない57年1月25日、72歳の湛山は全国遊説などの無理がたたり、病に倒れた。2月に入り、国会審議に臨

めないと知るや、すぱっと退陣を決意する。在任期間はわずか2か月だった。辞任表明から3か月近くも居座り続けた菅直人前首相と比

べると、出処進退の潔さが一層際立つ石橋湛山(いしばし・たんざん)


甲州人国記  “映画に燃やす情熱” ⑫   昭和58年         令和4年2月27日   村上博靱

敗戦後の若者たちが背負った重荷と哀切を、木村功演ずる犯罪者を通して描いた映画『野良犬』。
シナリオ作家
菊島隆三(69)は、黒澤明が監督したこの一作で世に出ている。

『男ありて』『六人の暗殺者』『女が階段を上る時』『用心棒』『天国と地獄』『赤ひげ』。菊島の作品をたどってくると、並みでない現実凝視力を持った作家のさめた目が浮かんでくる。

「甲府の菊島さん」と呼ばれた代々の呉服問屋の生まれ。文学少年は、「小説家なんてヤクザな商売はダメだ」といわれて育った。「どうもうけるかの話しか聞けない環境でした」。

旧制甲府商業を出て文化学院に進むが、父亡き後、兄にも逝かれ、次男は家業を継ぐ。帳場に座って「活字を見てれば時間が過ぎる」と文学書をむさぼり読む。全ての家産を売り、背水の陣を固めた時は、三十歳だった。

「蔵まで売って、気が狂ったかといわれましたよ」。けれど「門前の小僧」は、実業の世界の才覚と機敏を読み取る目を育てていた。「鉄道、電気事業には体当たりしていった初代甲州財閥のエネルギーを映画にしたい」

菊島の最新作は、同郷のサンリオ社長辻信太郎(55)が勧進元となった映画『父と子』(原作・水上勉)のシナリオである。監督も甲府出身の保坂延彦(38 。化学工業の専攻の辻は、元県庁役人。

奇才縦横の型破りで、公務員の規格にははまらず、三十五年、サンリオの前身会社を一人で創設した。ハイカラでかれんなアイデアを売る資本金百万円の会社は、あっという間に急成長する。

おとぎの国の館めいた東京・品川の本社で辻は、六千種類という商品の地域別、時間別売上高を見分けたりするコンピューター工房の「王様」めいていた。

「心の商品化」をうたって、小猫(ハローキティ)や小犬のデザインをあしらった製品は、お祝いカード、文房具からカメラ、時計、電卓に及ぶ。小猫のヘヤードライヤーや、ペンギン形の電気冷蔵庫も。国内外で年商五百六十億円、千百人が働く。

「あなたは、金の日はロマンチスト、銀の日はレアリストいわれましたよ」。自分でアニメ映画の原作も書き、アカデミー賞の記録映画『愛のファミリー』や『キタキツネ物語』を作る。ソロバンは合っていない映画作りだが、菊島と組んだ『父と子』にも営利主義への妥協はない。

黒澤明の『七人の侍』で若い農民・利吉を演じた土屋嘉男(55)は、「同郷の菊島さんと一緒の仕事がやりたいですね」。塩山市上於曽の旧家に育ち、「父は私が医者をやっていると思っていますよ」。

父の節堂は、甲斐郷土史の草分け。著作『甲斐史』と選集六巻が近年復刻された。「これからほんとの仕事だ」といっていた敗戦後、急逝。

山梨医專へ通っていた土屋は、「やりたいことをやってやれ」と俳優座へ入る。甲府爆撃で死んだ焼死体の解剖が、いやでたまらなかった。

黒澤明に愛され家族並み待遇。映画バカ一代の自分に、武田の武将だった祖先のノーテンキ(ケタ外れ)の血を感ずるという。

竹ヤブがそよいでいた大菩薩のふもとの家屋敷は人手に渡り、いまスーパーマーケット。土屋は綿菓子機械を買って庭で回し、故郷の空の雲のような郷愁の綿菓子を食べる。「バカジャンネと姉たちにいわれますよ。甲州方言にひかれるなあ」

映画といえば、鬼才といわれる監督増村保造(58は甲府の商家育ち。作家三島由紀夫と東大法学部の同級生で、三島主演の映画も撮った。冴(さ)えた目で、人間世界の深淵(しんえん)をのぞく。

(敬称略)資料;朝日新聞




甲州人国記  “映像の世界さらう” ⑪   昭和58年      
    令和4年2月26日  村上博靱

三浦友和、178cm浅黒く引き締まった童顔だが、青春俳優も三十一歳になった。父親は駐在所のお巡りさん。「八歳までの間に大菩薩嶺のふもとを四回も転勤しました」。

塩山駅近くの小学校三年の時、会社員になった父と上京。大自然を相手に走り回っていた少年は、「屋上でドッジボールするような山のない環境」にビックリする。母が作る甲州名物の「おほうとう」(煮込みうどん)が好きだ。


都立日野高へ進むが、映画も見ず、文化祭にも加わらず、卒業式には教室で一人寝っ転がって入るような少年だった。「目立つのがイヤだった」。芸能界入りした時、友人は「ほんとに出来るかな」と心配したそうだ。


多くの若者のように、三浦も挫折を体験している。高校を出て日本電子工学院に進むが、中途で勝手にやめた。「いまは学歴の世の中だ、なんとしても大学へ、という親たちの期待を見事に打ち破ってしまって」。フォークグループに出入りして芽を出す。



四十九年、映画『伊豆の踊り子』での山口百恵(24)との共演が、三浦を青春スターにした。「もう二年以上も、百恵は芸能界とは無縁な生活をしているのに、騒がれてはかわいそうですよ。繊細で弱い女なんです。芸能界はもうこわくて帰る世界じゃないと、はっきりいっています」。きまじめな口調である。


「愛なんてきれいごといったって、なんていうのが流行だけれど、愛の真実はいつの世でも変わらないじゃないでしょうか」。映画『E・T・』の子どもの心情に打たれた。「やりたいものと、見にきてくれるものの接点を探っています」と俳優設計を模索中。



かげりの深い青春像を映像に刻む根津甚八も三十五歳。歯科医の父は山梨市生まれで、一族には著名な漢学者もいた。根津は、母の実家がある都留市下谷の生まれで、小学校二年まで育つ。繊細な表情、いちずな、ともいえる目の色だ。

「少年時代から自意識過剰なハグレ者。他人の視線に刺され、監視されている感じでガンジンガラメでした」



それが、日大三高二年の時、文化祭で二人だけの不条理劇を演じて振っ切れた。「芝居をみられることを承知で演ずることで、他人との世界が縮まった。開放されたんですね。

人並みになった、という感じでした」。小さな声でトツトツと語る。芝居との出合いが人生を変えたとしたら、その道を歩むしかない。独協大を中退し、脚本に感動した唐十郎の「状況劇場」に九年。主役俳優だった。「全然食えはしないけど、芝居と『状況』運動の二つしか考えられませんでした」



NHKドラマ『黄金の日々』の石川五右衛門役で、若い女性のアイドルとなる。五十四年独立宣言。「唐さんの目でなく、自分の目でモノを見られるようになったことは、いいことだと思います。

自分で切り開くしかない。ベビーブーム、受験地獄、全共闘をくぐり抜けて来たぼくらの世代を、なんとか表現したい」。「一生懸命生きながらずれちゃう人、ぶきっちょな人間を演じていきたい」ともいった。感性鋭い役者である。



甲府市出身の当代の人気者に、歌手の田原俊彦(21)。一昨年の甲府公演では、ケガ人が出るほどの過熱人気だった。映像時代のお落とし子も、もうすぐ二十二歳。大人への道が待っている。


塩山市出身のシナリオ作家竹内勇太郎(62)は、昨年七月でテレビドラマ執筆の「休業宣言」をした。この二十数年間に、『赤胴鈴之助』『東京の人』『三匹の侍』など三千本。「ノルマに追われて消耗品になってしまう。ここらで出直さなければ」。

甲州ゆかりの『樋口一葉』の戯曲に取り組む。

(敬称略)資料;朝日新聞 


甲州人国記  “湖はわれらが故郷” ⑩   昭和58年       令和4年2月25日    村上博靱

山深い山梨県から、高名な水産学者が出ている。日本学士院会員、東大、名大名誉教授の雨宮育作(93)だ。東京・駒場の東大教養学部のすぐ近くに住み、「もう悠々自適、友達も亡くなっています」。

けれど、毎晩八時か九時に寝て、早朝四時には起きて勉強するという生活習慣は変わらず、「科学はもっともっと深くならないと。

どこまでいけば本当のことがわかるか見当もつきません」。「罪悪は夜生まれる」という精進一筋道に、脱帽というしかない。


魚類生態学を専門とし、日本イワシや、カキの研究が著名。三井海洋研究所長や、江ノ島水族館長もし、江ノ島のマリンランドで、ゴンドウクジラに曲芸を仕込むプラン作りもやっている。

長崎、パキスタンなどの水族館建設に参画、水族館時代を開いた。利根川のアユの卵をアメリカの湖川に大量移植する夢も実現した。「池に移植し他の歯育っていますよ」


富士五湖を調査、霞ヶ浦からワカサギの卵を移して富士五湖の名物を育てるきっかけを作ったのも、雨宮の仕事。「ワカサギが湖水によく合うことがはっきりしていた。

山国育ちなのに、イキにいい魚を食べるのが好きだったから水産学をやったんですよ」。旧制日川中では元厚相広瀬久忠(故人)と同級。厳しい空っ風に面を向けて、六キロの道をかけ足で通った。冬、土ボコリの畑から顔をのぞかせる故郷山梨市七日市場の石斧(せきふ)や石ヤジリを、丹念に拾い集めている。「遠い先祖の息づかいがが聞こえてくるようです」



「今は汚れちまってダメですけれど、少年時代は河口湖の水を飲みながらお昼を食べました。冬は全面結氷の湖でげたスケートで滑り、氷の下からワカサギ釣って」。

ギターをひく作曲家の
山本丈晴(57)の生家は河口湖畔。九人きょうだいの末っ子で、結核をやむ失意の少年時代を経て古賀政男の門に入る。テアトロン賞やLPレコード賞を受賞、『風林火山の唄』など甲州ゆかりの歌の作曲も多い。「ギターで親と子が語り合おう」とギター教室を開く。「非行に走るのも、対話がないからでしょう?」


 いま「TVC山本」の社長として、「目で見る社内報・ビデオ」作りに熱をいれる。社員五十人を含めスタッフ百五十人。「週五本を抱え、みんな走り回っています。

企業内部にいると気づかいない点を教えられると、割りに好評」。記録ものも手がけ、『延暦寺・東塔』は五年かけて撮った。『伊勢神宮ご遷宮』は十三年がかりの計画だ。



 温厚で、素直で、生マジメで。この山本と、「信頼できる人です」と女優山本富士子(51)が結婚して二十一年目になる。昨秋、テレビ朝日系でおしどり番組の「丈晴、富士子のさわやかサロン」がスタート。夫婦と各界ゲストの交流を描く。

「女優のイメージでない私の素顔が出せたらいいなと思っています。と富士子。「資料調べが大変なんですよ」と勉強する。



 目元涼しく、胸元豊かに、化粧の陰影こそ濃いものの、第一回ミス日本の美女は健やかである。「ねえ、そうだねえ」と丈晴が時々、相づちを求める円満ぶり。「富士子の舞台の音楽も全部ボクがやっているし」。

妻、母親、女優の三役をこなしきたい、と富士子。中学生の一人息子を「七時には起きて必ず声をかけて学校へおくりだすの」。


 富士子は「私、生まれが大阪ですので、河口湖は第二の故郷の思いなんです」という。丈晴の親友、富士観光開発社長志村哲良(56)が、富士の伏流水を探し当てて開発した山ろくの別荘村へ、家族はよく出かける。春、富士桜がにおう村だ。(敬称略)資料;朝日新聞



甲州人国記  “富士山麓を見すえ” ⑨   昭和58年                令和4年2月24日    村上博靱

標高千メートル、富士山おろしが雨戸を鳴らして、陸上自衛隊北富士演習場ゲートわきの「入会小屋」は寒かった。
すぐ後ろに自衛隊の建物群と富士。「忍草(しばくさ)母の会」の女たちが、交代で座り込みを続ける小屋の外側は木サクで固められ、北富士闘争支援の若者たちが頑丈な鉄のカギを開けて小屋に導く。「母の会」会長の
渡辺喜美江(76が、「十五番目の小屋ですじゃん」というように、四十二年、最初は着弾地に作られた小屋は、女たちの歳月と一緒に生きてきた。「演習地全面開放」を訴える母の会が生まれて、二十八年になる。


国と山梨県の間で結ばれた演習場暫定使用協定の期限切れがこの四月。それに反対派が「基地固定化につながる」と測量阻止を叫ぶ東富士有料道路(富士吉田市―御殿場)造りを目の前に、北富士に緊張感が漂う

スゲがさにカスリのモンペ姿で、「富士を撃つな」「入会地の横取りを許さず」と、着弾地への座り込みをした北富士の女たちの猛女ぶりは、全国に有名である。

でも、白菜漬けをすすめてくれる渡辺も、母の会事務局長の
天野美恵(58)も、心優しい猛女だ。乙女時 代、演習場は朝草刈、夕草刈りの入会地だった。

当時、忍草は有数の馬 産地。渡辺は馬で朝露の草原を駆 けた。野イチゴ、ボケの実、薬 草採りの思い出。「あしたは連れてっとくれ、と若い男と朝草刈りの約 束をしたもんだ」と天野。

桑を育て、ソバを作った。「富士山からの風の吹き通しで霜 がたまらず、作物が実った」。わしらの生活は、入会地に依存していたさ」



「土は万年、金はいっとき」が母の会の合言葉である。会員百五十人。「全村、土方に行かなきゃあ食えんようなことじゃあダメ。演習場が返ってきたら、共同牧場にして、トウモロコシ、ソバも作ってね。女の気持ちですよ」「百年戦争ですよ」といいながら、二人の女は夢を語った。



北富士闘争の中心人物が、忍草入会組合長の天野重知=しげのり=(74)。行動半径の大きさと底知れなさに、「天皇」の異名がつく。「毎日富士を見てうつらうつらしてますよ」「私はまだ生きぐさくて」。

同じ人物からこんな言葉が飛び出す。闘争の原点である入会権の思 想と法研究に打ち込み、「山と水を地域民の手に取り戻す運動」にかける。戦前、忍野村村長をし、東京電 灯(現東京電力)ダムの溢水(いっすい)による田畑被害補償を、ダム取水口を壊すという農民の実力行使で勝ち取った。



「それにしても、闘争は気楽でないともたねえですよ」。天野の「おんな宿」の研究が、母の会づくりに結びついた。「女族の方が強いねえ。

後家さんになって財産をつぶすヤツはない」。県議会議長をした父の有料道路事業「富士山自動車」を継いだ資産家。「演習場反対の灯をともし続けるバカ者でいたい」。




足で歩いて『冨士山麓をめぐる入会の研究』をまとめたのが、山梨学院大教授萱沼英雄(67)「冨士北麓にある四万ヘクタールの国有、県有地を、地元民のために役立てなければ展望はない」。

富士吉田市で地域誌『雪解(げ)流』を刊行し、自然保護の論陣を張る富士吉田市文化協会長、同医師会長の
内藤成雄(62)。「作家新田次郎は、冨士は自動車道路の犠牲になって滅びていくと怒った。

東冨士有料道路でも大変な森林が切られていくでしょう。ゴマメの歯ぎしりを続けます」。

富士吉田には、焼き物は無理とされた冨士溶岩の赤土を生かし、独特の溶岩焼きを生み出した細川秀年(49)も住む。
冨士の魂を盗もうと、頭も凍るような二合目の小屋で、窯と対座した。


(敬称略)資料;朝日新聞       



甲州人国記  “先端産業の先駆者” ⑧   昭和58年          令和4年2月23日  村上博靱


「山申会」のメンバーの一人が、日本電気(NEC)会長小林宏治(75)だ。総合エレクトロニクス(電子技術)産業トップメーカーへの基盤固めをした、実力者会長である。



富士山が見える日本電気の応接室で、「戦後、食うや食わずの中から、外国に負けてたまるかとムホン気で技術開発をやって来た。霧に包まれたり、胸突き八丁を超えたり、よくここまで来れたよ」。

旧制都留中(現都留高)から東大電気工学科を出て、通信設備の技術革新に取り込んで来た工学博士・小林の感概。「衛星通信では世界の三分の一をNECが作ったよ」。六十の地上局を建設し、実績世界一。




「日中国交回復の田中訪中はナマ中継すべきだ。カネはもらわんでもいい」と、徹夜の突貫作業で移動地上局を完成させた思いでもある。『成長の限界』で資源有限の警鐘を鳴らしたローマクラブの日本委員会議長。

国際経済人の英語力は、「米占領軍との生き死にのかけひき」で身につけた。「IBMのコンピュータの後を追っかけるな。苦しくても自前でやり遂げろ」と、新製品を開発する。



大月市初狩の故郷の山村に帰ると、「宏治さん、お元気ですけ」と声をかけられる。いま同市名誉市民。
父は小学校校長だった。無公害のNEC工場は各地引っ張りだこ。小林は、コンピュウータ通信システムが村と大都市をつなぐ
日の青写真を胸に温めている。



「エキサイテング」。昨秋、南都留郡忍野村のファナック富士コンプレス工場を見学したサッチャー英首相は、ロボットの活躍に声
を上げた。

山中湖畔の二工場は、六十人と百一台のロボットで毎月一万台のコントロールモータを作り、百人で毎月三百台のロボットを作り出せる。「ファナックの全従業員は千人だが、生産額で換算すれば、一万人分の仕事をしていますよ」と社長の
稲葉清右衛門(57)。



稲葉も東大工学部卒の機械技術者で工学博士。日本電気のライバル富士通に入って、自動工作機械の頭脳であるNC(数値制御)装置に取り組み、世界のトップを行くNC産業への道をひらいた。

西独シーメンス社と提携して米国市場に進出、世界最大の自動車メーカー、ゼネラル・モーターズと手を結び高性能ロボット作りに乗り出す。


ロボット時代への拠点が忍野村の無人化工場。茨城県生まれの稲葉だが、「忍野は、北緯四〇度圏への立地と同じです。夏、空気調節の必要はないし、ソーラシステムを導入した省エネルギー工場。

工場技能者も、地元の工業高校出が一番いいです」。忍野にもう一つ、ロボットによる組み立て工場をつくるまで、名うての酒飲みが禁酒を宣言している。


「私たちのロボットはユーザーの必要から生まれた。お上意識でロボットを作るのと、利用者の要請にこたえて作るのでは大変な違いですよ」と、業界大手の「知名度」に闘志を燃やすのが、大日機工社長の河野敏旺(43)。

ロボット製造の拠点は、南アルプスを望む甲西工業団地。ロボットブームに乗って売上高年々倍増の快進撃を続け、海外での「技術評価」は高い。河野は芝浦工大退の機械技術者で、「省力化機械」への執念が四十種のロボットに実った。



社是なし。タイムレコーダーなし。給与は自己申告。週休三日制。「自由に、フルに、能力を生かすのがモットー。技術はブランドや学歴じゃありません」。月産二百五十台体制を確立し、二百人の若者がロボット作りに取り組む。

東京生まれだが、父が勝沼町の出身。「私は甲州への出稼ぎ。武田信玄にならって、甲府から世界市場に攻め込みますよ」といった。



(敬称略)資料;朝日新聞



昭和58年 甲州人国記 ”財界甲州党の系譜” ⑦ 令和4年2月22日  村上博靱                  

所得倍増論の池田勇人元首相とつながり、「高度成長の演出者」「裏の財界総理」といわれた石和町出身のコバチューこと小林中・元日本開発銀行総裁が一昨年死んだあと、甲州財界人の集まりである「山申(さんしん)会」の中心は、水上達三という格好になった。「オレたちゃあ山ざるだ」の甲州人一流の自虐(ぎゃく)が命名の由来。



いま二十二人の会員の中には、土佐育ちで甲州へ婿入りした三菱電機会長の
進藤貞和(72)や、芦屋育ちで甲州とは縁のない東宝社長松岡功(48)もいる。

松岡は、宝塚の創始者でアイデアの財界人だった韮崎市出身の故
小林一三の孫だ。メンバーの一人である阪急百貨店会長野田孝(81)も同郷の一三に目をかけられて育った。

戦前、小林中が山申会を作ったころの仲間、元海外電力調査会長・
進藤武佐衛門(故人)の実弟が小淵沢町出身の関東電気保安協会理事長進藤一郎(72)、元日本郵船社長浅尾新甫(故人)の息子がニューヨーク総領事の浅尾新一郎(55)である。



水上らは月一回、築地の料亭「米田中」に集まり飯を食う。世話人役が旧制甲府中同窓で水上と親しい日本信号会社元社長
(現相談役)
秋山つとむ(79)。

例会は四百回近く続いているというから、息は長い。この山申会員に、東武鉄道のオーナー社長二代目
根津嘉一郎(69)や、松屋百貨店社長をした三代目古屋徳兵衛(72)がいる


初代根津嘉一郎。「乗り物とアカリをやれ」と若尾逸平に勧められ、故郷山梨市の田地を売って上京、ボロ会社を次々に再生させて鉄道王と呼ばれ、一時は「東電」も支配した。

昭和十五年世を去り、二代目は二十八歳で社長を継いだ。「スケールの大きいオヤジでした」。豪快な生き方は、東京・南青山旧邸跡の根津美術館に残る。


敷地二万数平方メートル。都心の森の美術館に、『那智滝図』はじめ国宝七点、重要文化財七十七点、重要美術品九十二など美術品七千三百、発掘陶磁片一万百。「高名な学者が『写しもの』とけなした絵でも、父は自分の面識買って『もうけたよ』といっていました。

奈良の骨とう店の美術品を全部買い占め、東京へ十五トン貨車で運んだこともありましたよ」と二代目。「甲州のタカ」と呼ばれた財界風雲児の面目が躍る。


八十余社の東武グループを率いる二代目は、酒もゴルフもやらず「終始一誠意」の先代の教えを守る東大出の優等生。東洋美術を語ると目が輝く。
先代根津に見込まれたのが、早大を中退し故郷で禅坊主と碁など打っていた小林中だ。根津が社長をしていた富国徴兵保険の部長にすえ、小林は三代目社長となった。

いま六代目社長が一宮町に故郷のある
古屋哲男(67)五代目社長は森武臣(故人)で飯田蛇笏の実弟。不文律のように歴代、社長は甲州人である。



戦後、富国生命となった富国徴兵は、兵隊さんの保険会社だったから敗戦でガタガタ。「結局、株式投資で設けて立て直した。生保業界は株に出動してくれという当時の池田蔵相のお声がかりだから強い。

投資制限はあったが、大蔵省には毎日、ガリ版刷りの始末書を出して、総資産の六割ほどまで買いまくったかな」と古屋。戦後の株式市場を「富国」はわかせた。乱世に生き生きした小林や森の顔が目に浮かぶ。

日産、日立をバックに堅実経営の日産生命相互社長は、旧制日川中、早大で古屋と同窓の
矢崎恭徳(65)。

一方、「レジャーの総合経営」をうたう後楽園設立に小林一三は力を入れ、異母弟で塩山市の田辺宗英(故人)が社長をした。現社長の保坂誠(72)は瀋陽で生まれ戦後、塩山へ引き揚げた。「役割は上手な遊び方の手助け役ですよ」(敬称略)資料;朝日新聞 


           
 


井伏鱒二わくわく 「幸富講」の足跡      平成24年2月                  令和4年2月21日 村上博靱

写真 甲州を愛し、晩年まで気心の知れた仲間らと甲府市の湯村温泉郷を訪れた作家、井伏鱒二(1898~1993)。
「甲府行」をもじって「幸富講」と呼ばれたこの小旅行で、幹事だった
野上照代さん(84)=東京都世田谷区=が18日、県立文学館(同市貢川1丁目)を訪れ、井伏らと交わした書簡や当時の写真などを寄贈した。



                                                   
映画監督の黒沢明の記録係を長年務め、「黒沢組」の一人として知られる野上さん。16~18日に湯村温泉郷で開かれた映画祭「山梨 文学シネマアワード」の受賞者に選ばれたことが、寄贈のきっかけになった。



                             
昨年受賞を打診された際、授賞式の会場が常磐ホテルだと知り、懐かしさがこみあげた。そこは井伏らと毎年のように訪れた幸富講の宿。その頃に撮ったスナップ写真や手紙は、自宅に眠ったままだった。「これを機に」と、井伏の遺族にも了解をとり、寄贈を決めた。

 
                         

幸富講は62年ごろ、井伏の発案で始まった。参加者には小説家仲間の
安岡章太郎三浦哲郎、詩人・飯田龍太ほか、雑誌編集者らの顔ぶれが並んだ。春には一宮(笛吹市)の桃の花や清春(北杜市)での花見を楽しんだ。秋には「臨時総会」と称し、紅葉を堪能することもあったという。                          




野上さんは、黒沢組の一員になる前、雑誌の編集者時代に井伏と知り合った。幸富講には84年から、井伏の晩年が迫る91年ごろまで、幹事の一人として参加した。 この間に受け取った手紙は井伏から112点、他の作家らからは約150点。この日、これら書簡と数多くのスナップ写真などを、県立文学館に納めた。 「帰りの列車で、もう次の会の話を始めるくらい、(井伏)先生はこの会をほんとうに楽しみにしていた」と振り返る野上さん。


                                           

寄贈を受けた県立文学館は「山梨にゆかりが深い
井伏鱒二先生の晩年の足跡が分かる大事な資料」と話す。資料を精査、整理し、来年3月末までには展示する予定という。 資料;朝日新聞



昭和58年 甲州人国記 財界実力者は健在 ⑥ 
                                              

                                                                                                                  令和4年2月20日  村上博靱

昨年の晩秋、日本貿易会会長の水上達三(79)は小半日、故郷の山を眺めて来た。水上の故郷は、南アルプス・甲斐駒ケ岳のふもと、北巨摩郡清哲村(現韮崎市)。北に八ヶ岳、東に金峰、南に富士。

旧制甲府中(現甲府一高)時代、洪水で橋が流れるたびに「強行渡河して何度も足をすくわれかけた」釜無川と溶岩台地。「山も水も澄んでいましたよ」。柔和な目で笑った。



             
 「ハヤブサの達」が、三井物産の社長時代まで水上についたアダ名。「理に走る人」「国際経済に明るい人」の評もある。甲州財界人の特徴である冴えたカンとして経済政策提言の能力を合わせ持った勉強家のハヤブサだ。

敗戦の時、北京支店長代理だった水上が、財界解体、三井物産解散の祖国で思い定めたのは、「貿易立国」の先兵になることだった。「物産の解散は、ハダカで大道にほうり出されたようなもんでした」。




同志三十七人、幹部無給でスタートした「第一物産」が三井物産再建の母体となる。「郷里の後輩を応援するよ」と、苦境の時、ポンと第一物産の株を買ってくれたのが、当時の富国生命社長小林中(あたる)。

四十八年、三井物産の取締役を辞めた時、「二十六年走り続けてやっとホットした」という水上の感慨は、本音だったろう。

ハヤブサの鋭さは、温和な表情に変わったが、国際経済摩擦も深刻化する中でまだ自適にはほど遠い。毎朝五時に起きて、ラジオニュースを聞く。

「世界に憎まれないような節度ある輸出が大事ですよ」。菜園を作り、盆栽も育てる。日本緑化センター会長も兼ね、「自然の摂理の中で共存していかねば」。「故郷では夕日に染まるアカネ色の山々に見とれてきたが、大切にしたい」
住友金属工業会長の日向方斉(76)には、「甘い純情と厳しいリアリズムの同居する怪物」という評がある。「切れ者」「鋭い」の世評にも事かかない。敗戦の混乱期から住友金属を立て直して銑鋼一貫体制を軌道に乗せ、関西経済連合会会長として、財界一方の実力者である日向は、歌詠みだ。


[学び舎の児らも別れて行く日ぬいづこの鉱山(やま)に行くらむ児らは] 戦前、北海道の住友鉱閉山の際、日向が詠んだこの歌を、俳人宮柊二は、内なる心が、こもり響いている、と評した。日向は格別、作歌の精進をしたわけではない。「歌心おのずから発し、奔(ほとばし)るのを書き記しただけ」と照れた。


三十三年、高炉建設のため世界銀行から借款を求める旅を、「日向はウオール街ビルの谷間をひたぶるに金を求めて往来ひと歳(とせ)」と詠んだ。情景が目に浮かぶが、経営者としては「攻めの方斉」である。

とくに四十年には、通産省の粗鋼減産案に反対して譲らず、他の鉄鋼大手とも対決して「ケンカ方斉」の名を高めた。「反対なら原料炭をちょん切るというから、ちょんぎるならやってみろ、と通産次官にいった。官僚が民間企業に介入するなということですよ」





鉄鋼の対中国輸出を真っ先に成し遂げ、「周恩来は偉い政治家だった」という親中派ながら、根っからの自由経済主義者。その日向はいま、「国あっての企業だ」と防衛力の強化を説き続ける。

先年、「徴兵制発言」もあっただけに、側近は気をもむことしきり。そして、「政治は私の思う方向に近づいていますよ」。少年時代、海軍工廠に勤めて海軍軍人にあこがれ、苦学した。故郷は西八代郡下部町の山村。

簡素な家に住み、夜なきソバを汁まですすり込む庶民性と、「国防あっての国」への思い入れが、この明治人同居している。


(敬称略)資料;朝日新聞
                                       

『お茶でも飲んでけし』


昭和58年甲州人国記  ”キツネとタヌキ” ⑤     
                                                                                   令和4年2月19日
   村上博靱

江戸風の着流し姿で、文士熊王徳平(76)は、文机を前に端座していた。富士川に臨む南巨摩郡増穂町青柳下の下町風の二階家。文筆生活六十年。 

「田舎文士」を自称するが、率直、簡明な熊王文学のファンは少なくない。十四歳で継いだ床屋を三十五でやめ、『狐と狸』に描く。二度映画化され、甲州行商人の生態を通して、欲と色の人間模様をすかし浮き彫りにした。



宇野浩二に愛された熊王にとって、この行商体験も「文学のこやし」だったに違いなく、人間をまる裸にする文章には、老来、とみに磨きがかかってきた。

その熊王に、五十年初版の小説『虎と狼』がある。三十五年、甲府盆地のバス会社、山梨交通の株争奪合戦に巻き込まれた作者が、内側からとらえた一種の実録もの。合戦の主役は「国際興業の
小佐野賢治と西武鉄道の堤康次郎」。

「虎と狼」である。「小資本が大資本に飲み込まれる歴史的過程で、善悪の問題じゃない」と熊王。国際興業が山梨交通の実権を握るが、「小佐野の野生と生命力に圧倒された」という。



小佐野賢治(65)。運輸、観光、不動産の四十社、二万人を擁し、年商三千五百億円の国際興業のオーナー社主。ロッキード事件の被告人である。 

東京・上野毛の豪邸から、末弟の国際興業社長
小佐野政邦(54)と午前八時に出社する。「事件は経営には何一つ響いていないよ。火の粉を振り払う体制だって整ってるさ」と政邦は胸をそらす。


 

ヒンピンとかかってくる電話。田中派の大臣も訪れて来た。本社内の社主・賢治は忙しい。「山梨交通は乗っ取りなんかじゃねえさ」。甲州弁で心外の口ぶり。

賢治の口は、郷党と少年時代を語る時だけほころんだ。かっての山村、今は勝沼町山区が故郷。小農の長男は貧乏をなめた。休息尋常小学校の時、百何十円かの少年団旗を作るために、二年間友達と新聞配達。

「毎朝、午前二時に起きて一里の道を塩山駅まで行き、村に配る八十一部の新聞取って来た。いまの若いモンには、そんな根性はあるめえなあ」。「山梨の家に帰ると、古い友だちがたいてい十四、五人は集まってくる。

昔の人は人情があるさ」。高血圧で充血した目が時にうるみ、時に光る。心臓発作用のニトログリセリンを持ち歩く体が、「甲州人は根性だよ」。 



勝沼町の公民館、役場、消防庁舎造りに尽くした小佐野は、同町名誉町民である。母校には、「小佐野図書館」も建つ。経営するホテルでの豪華な小学校同期会は、町の語り草だ。

尋常小学校を出て上京、軍と結び、米軍ご用達も努めて、はい登ってきた大実業家街道。機敏な抜け目なさと盛んな行動力に、天びん棒を肩に財を築いた明治初期甲州商人の「血の流れ」を感ずる山梨人は少なくない。

「山地区の純収入は、年間一戸三百万円はない。甲州はまだ貧しいさ」と賢治。急逝した片腕とも頼む二人の弟に話が触れると、目に涙をにじませた。

しかし、一代の政商は感傷などに生きていない。「中曽根で決まりさ」と、自民党総裁選の見通しがついた日、賢治の表情には喜色があふれ出た。



『屈角内閣』の出現で、肌で危機を幹時増す。悔いが残らないように叫び続けますよ」。言論弾圧の歴史と庶民の戦災史を掘り起こして来た甲府市出身のジャーナリスト松浦総三(68)の憂憤である。

反民主主義の金権構造の根を断て、とロッキード事件究明の市民運動もした。松浦の目に、金権構造と戦前の軍事大国が重なって映る。   

(敬称略)資料;朝日新聞 



『お茶でも飲んでけし』                        令和4年2月18日
                
村上様           

誌上でこんにちは。「お茶でも飲んでけし」2月13日掲載の甲州人国記・作家、ギタリストでもある深沢七郎を読んで改めて興味を持ちました。

私は「楢山節考」は長野県出身の人が書いた、と思い込んでいましたので、山梨県境川村と知って引っ掛かったのです。何故ならば私の母は川中島出身なので、小さい頃から篠ノ井線の姨捨駅を知っていました。

眼下を長野平野が広がり、手前には有名な「田毎の月」が見られる段々畑があります。そして何時からか姨捨山は何処にあるのだろう。と周りの山を漠然と見ていました。

「楢山節考」の映画は1958年おりんに田中絹代、1983年には坂本スミ子が演じて何回も見ています。何処かに何か引っ掛かっているものがあったのです・・

今日自分なりに理解出来ました。深沢七郎は民間伝承の棄老伝説を題材に舞台は山梨県境川村大黒坂だと。深沢七郎についてまだ知りたい事が沢山ありますが、ぼちぼちと資料を読んで行きたいと想います。

山梨県に素晴らしい作家がいたのですね。お茶でも飲みながらゆっくりとお話が出来たら良いのに。掲載して下さり有り難うございました。  
                                                                                                                                        松井昌美




                                                                                                                                                令和4年2月16日
                     



                                                                    

『お茶でも飲んでけし』                                   令和4年2月14日                                                       村上箔靱

甲州人国記  “庶民の心を生きる ”  ②   昭和58年                           

「ここは、甲州のように山がねえからね。甲州の山は、なんともいえんさ」。関東平野が広がる埼玉県南埼玉郡菖蒲町の「ララミー農場」内のすみか。

主人の七郎さんは、テレビと石油ストーブに向い、土間のヘリに腰を下ろしていた。同居人の「ミスターレモン」が、庭で採れたカキをむいてくれる。「カキは少し未熟な方がうまいだけんど」「うちのミソもひとつなめてみんけ」。自家製のミソとキュウリ。天然の香が舌にしみ入る。


甲州方言まる出しの七郎さんは、作家の深沢七郎(69)だ。四十二歳の「厄年」に書いた小説『楢山節考』は、「恐るべき小説」と文壇に衝撃を与え、続く長編『笛吹川』で、武田家三代統治下の庶民生活流転の相を描く。

四十六歳の折り、中央公論に『風流夢譚』を発表し、「天皇家を傷つけた」と右翼の攻撃を受けて逃亡、流浪の生活。四十年以来、農場に住み、三十五アールの畑に桃、梅、クリ、ナシを植え、ネギ,菜っぱ、大根、キュウリを作る。

「賞をもらえん人に悪いから」と『みちのくの人形たち』の川端康成賞受賞を拒否し、谷崎潤一郎賞は受けて話題をまいた。


「実をいえば、川端康成は好きじゃあないんだ」。ひょうきんな目は人なつっこい。七郎さんは少年の頃から、おばさんたちの世間話ををよく聞いた。

「塩より砂糖の値段の方がかかっちまって困りもんじゃん」といった風な庶民の会話。旧制日川中時代は「娘のいる家にお茶飲み話によく出かけた」。

モシキをひざで折って湯をわかしてくれたホッペの赤い甲州娘たち。「七郎さんはみんな人の話を引き出しちもうじゃん」といわれた巧妙な聞き上手だった。


作家・深沢の素地を培ったのは、この「茶飲み話」「縁側話」での見聞だったろう、と思えてくる。『笛吹川』では、お館(やかた)様である武田信虎、信玄と庶民とのかかわりをはっきりさせたい、と一年がかりで資料を調べた。

石和町の印刷屋の息子で、甲州庶民の暮らしに溶け込んで育った深沢にとって、都会のインテリが驚くような「こわい小説」も、茶飲み話群像の深沢流再構築であったのだろう。


「ポイと家の塀を乗り越えて男に会いに行った家の女中」の生命力に共感し、中学生の深沢は「貧乏人の糸織り工女とだけ付き合っていたよ」。

『楢山節考』の舞台は、飯田竜太の住む境川村。主人公の老母「おりん」の原型は、やさしく甘い実の母親だった。


「母はがんで死んだ。おれもがんでころりと死にたい」と真顔。「反えらい人」の哲学に生きる。『笛吹川』と『風流夢譚』をどう見るかは、その人の考え方を判定するリトマス試験紙だよなあ、と不適の笑いも浮かべた。


ギタリストだった深沢は、『楢山節考』を日劇ミュージックホールの楽屋で書いた。国内外客の観光名所になっている舞台で、いまスターは、「お姉さん」と呼ばれる座頭の岬マコ(32)。御坂町育ち、「分校の遠足はいつも三つ峠だけだった」。三人姉弟の長女。父が愛人をつくって貧乏暮らし。


中学を出てすぐ踊り子に。演出家は岬を「最後の踊り子バカ」という。「ヌードでなくて芸で見せる」岬の舞台には、哀切さに通ずる緊迫感があった。「ハングリーでないとやって来れない世界でした」。

「岬は、若い子っを目立たせようと、自分は一歩退くようなところがある」の評も。家におさまった父は、時折、劇場にやって来て、「お前が一番きれいだったよ」。激しさと内気が同居する目が、舞台ではいつも遠くを見ている。(敬称略)  資料;朝日新聞


 

                  
                                                                                                                                                                       
                                                                                                                                                      
           
 『お茶でも飲んでけし』                        
                                                                                        令和4年2月13日
               
                                                                                                                                                  

  
              『お茶でも飲んでけし』                        令和4年2月12日
                
  















『お茶でも飲んでけし』                        令和4年2月6日
                                       

  平成29年5月27日記事

 

 

『お茶でも飲んでけし』                    令和4年2月5日
                                           

 

   








                                       資料 山梨県人会連合会 
                      






昔から甲州弁で良く使われた言葉に「おまん、ひまじゃ ちょっくらよって お茶でも飲んでけし どうせ うち帰えとおって なにも すること ねーずら」と親しみを込めた会話が今でも忘れられません。 そこで郷愁にしたり山梨県内の過去の話題をまとめた「お茶でも飲んでけし」の欄を設けました。現在コロナ禍にあって、これを読んで少しでも元気を出す手助けになればと思います